開業時の経営危機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 00:16 UTC 版)
「ロンドン地下電気鉄道」の記事における「開業時の経営危機」の解説
ディストリクト鉄道の電化工事は急ピッチで進んだものの、その完成を見ることなくヤーキスは1905年12月29日にニューヨークで死去し、代わってエドガー・スパイヤー(英語版)がロンドン地下電気鉄道の会長に就任した。スパイヤーはロンドン地下電気鉄道の支援を行っていたスパイヤー・ブラザースの会長であり、ニューヨークの金融機関、スパイヤーの支援者でもあった。ノース・イースタン鉄道(英語版)のゼネラル・マネージャーだったジョージ・ギブ(英語版)がロンドン地下電気鉄道の社長となった。ベーカーストリート・アンド・ウォータールー鉄道は1906年3月10日、グレート・ノーザン・ピカデリー・アンド・ブロンプトン鉄道は1906年12月15日、チャリングクロス・ユーストン・アンド・ハムステッド鉄道は1907年6月22日に開業した。各鉄道はすぐにベーカールー・チューブ、ピカデリー・チューブ、ハムステッド・チューブと呼ばれるようになった。 新規路線の開業後しばらくの間ロンドン地下電気鉄道の経営は厳しい状態が続いたが、ヤーキスはこれを見ることもなかった。開業前に見積もられた乗客数が過大だったため、莫大な借入金の利子支払いが出来ない状態に陥った。ベーカールー・チューブは開業前に12カ月で3500万人を輸送すると計画されていたが、実績はその60%、2050万人にとどまった。ピカデリー・チューブは6000万人の計画に対して2600万人、ハムステッド・チューブは5000万人の計画に対して2500万人だった。ディストリクト鉄道は電化により利用客が1億人に増加すると計画されていたが、実績は5500万人に終わっていた。ロンドン地下電気鉄道の路線間や他の半地表地下鉄との競合に加え、急激に路線を拡大した路面電車が馬車の乗客の大半を奪ったことが計画値に乗客数が達さなかった要因として挙げられている。低価格に抑えられた運賃も併せて収益を圧迫したとされている。 ロンドン地下電気鉄道の経営上最大の課題は5年満期の利益共有型債権が1908年6月30日に満期を迎えることにあったが、手持ち資金は枯渇していた。スパイヤーはロンドン・カウンティ・カウンシル(英語版)(英語: London County Council、LCC)に500万ポンドの公的資金を注入するよう働きかけたが不調に終わり、ロンドン地下電気鉄道を破産に追い込むことを辞さない投資家に対してはスパイヤーの個人資産を切り崩して対処した。スパイヤーとギブは出資者がもつ社債を1933年から1948年にかけて返済する長期債務に切り替える合意を取り付け、危機を乗り切った。
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