開会前の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 09:58 UTC 版)
「宗教改革議会 (イングランド)」の記事における「開会前の状況」の解説
ヘンリー8世は王妃キャサリン・オブ・アラゴンとの間に1516年に生まれたメアリー王女(後のメアリー1世)だけが成長、流産と死産を繰り返し王子出産を期待出来ないキャサリンと離婚(婚姻の無効)、彼女の侍女アン・ブーリンと再婚することを考えた。この方針で1527年から1528年にかけてローマ教皇クレメンス7世と折衝、寵臣の大法官兼枢機卿トマス・ウルジーを通じて教皇から婚姻無効許可を得ようとしたが、キャサリンの甥のスペイン王兼神聖ローマ皇帝カール5世からの報復を恐れる教皇から許可を取れず失敗、1529年6月に教皇特使ロレンツォ・カンペッジョ(英語版)を招いて開催した離婚裁判も結論が出ず、王は10月にウルジーを見限り大法官を罷免・引退させた。問題解決の見通しが立たない王には教皇へ圧力をかけて許可を取るか、教皇と決別して教皇権を否定、自ら離婚問題に決着をつけるかの選択があったが、後者を選んだ王は11月に議会を召集、後世宗教改革議会と呼ばれる議会が1529年から始まった。 宗教改革議会は開会した1529年から既に反聖職者感情がみなぎっていた。それは聖職者が腐敗と汚職に塗れていることが周知の事実で、イングランド全体の5分の1もの富を誇る教会がローマへ送金していることも民衆の怒りを買い、そうした感情を反映した議会は立法で聖職者の権利を制限していった。王の側近で議員のトマス・クロムウェルは議会のこの雰囲気を読み取り王の離婚問題に利用、彼の尽力で議会は教皇権排除と王権の教会支配強化を目的とする法を次々と成立、ローマ教皇庁と決別してイングランド国教会が創設されるまでになった。
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