酒税と自由民権
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 09:39 UTC 版)
1875年(明治8年)、明治政府は、江戸幕府が定めた複雑に入り組んだ酒株に関する規制を一挙に撤廃し、酒類の税則を酒造税と営業税の二本立てに簡略化して、醸造技術と資本のある者ならば誰でも自由に酒造りができるように法令を発した。このためわずか一年のあいだに大小含め30000場を超える酒蔵がいっきに誕生した。のちに禁じられる自家製酒(どぶろく)も、製造量は1年につき1石までという規制はあったものの、どの家庭でも自由に造ることができた。1882年(明治15年)には、自家製酒を造る者は製造免許鑑札を申請し、鑑札料金80銭を納めることが義務づけられたが、販売を目的としないかぎり、ちゃんとした清酒であっても1886年(明治19年)まで自家醸造は自由であった。 一方では、輸出先に対して関税自主権を持てなかった明治政府は、外国からめったに輸入されないため関税について頭を悩ませる必要がなく、しかも国内消費が大きかった日本酒から徴収する酒税に、主たる歳入としての目星をつけた。こうして政府は、酒蔵への課税をどんどん重くするようになり、明治政府は国家歳入のじつに3割前後を酒税に頼るにいたった。こうした重税化の動きに対し酒蔵側は、1881年(明治14年)に高知県の酒造業者が、同県出身の自由民権運動の指導者植木枝盛の助力を得て、酒造税引き下げの嘆願書を政府に提出したのを皮切りに、各地で抵抗に立ち上がった。政府側は嘆願書に署名した蔵元を処罰するなどして鎮静化を図ったが、酒造税をめぐる酒蔵たちと明治政府のあいだの攻防は収まる気配をみせず、以後三十年近くにも及ぶことになる。なかでも代表的な事件が1882年(明治15年)の大阪酒屋会議事件である。 課税に耐えられない酒蔵はどんどんつぶれていき、1882年(明治15年)には16000場にまで減少した。やがて8000場前後を推移しながら昭和時代を迎え、太平洋戦争によって打撃を受け4000場ほどになる。さらに平成時代は消費低迷期を迎え、2008年(平成20年)現在では約1500場を下回っている。
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