郵便袋殺害
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 14:00 UTC 版)
上官の元陸軍第16師団歩兵第20連隊伍長が「中国人を郵便袋の中に入れ、ガソリンをかけて火をつけ、手榴弾を袋のひもに結びつけて沼の中にほうり込んだ」と証言した。 東によれば、1937年(昭和12年)12月21日、南京城内の整備を命じられ、馬群鎮を去り、中山通の最高法院の前に一人の中国人男性が引っぱられてきた。歩兵第20連隊伍長は中国人男性を袋の中へ入れ、自動車のガソリンをかけ火をつけよといった。 泣き叫ぶ支那人は、郵便袋の中に入れられ、袋の口はしっかり締められた。 彼は袋の中で暴れ、泣き、怒鳴った。袋はフットボールのようにけられ、 野菜のように小便をかけられた。 ぐしゃりとつぶれた自動車の中からガソリンを出した西本(歩兵第20連隊伍長の仮名)は、袋にぶっかけ、 袋に長い紐をつけて引きずり回せるようにした。 (略)西本は火をつけた。ガソリンは一度に燃え上がった。 と思うと、袋の中で言い知れぬ恐怖のわめきがあがって、 こん身の力で袋が飛びあがった。袋はみずから飛びあがり、みずから転げた。 戦友のある者たちは、この残虐な火遊びに打ち興じて面白がった。 袋は地獄の悲鳴をあげ、火玉のようにころげまわった。 袋の紐を持っていた西本は、 「オイ、そんなに熱ければ冷たくしてやろうか」 というと、手榴弾を二発袋の紐に結びつけて沼の中へ放り込んだ。 火が消え袋が沈み、波紋のうねりがしずまろうとしている時、 手榴弾が水中で炸裂した。水がごぼっと盛り上がって静まり、遊びが終わった。こんな事は、戦場では何の罪悪でもない。 ただ西本の残虐性に私たちがあきれただけである。 — 東史郎『わが南京プラトーン― 召集兵の体験した南京大虐殺』青木書店,106-108頁 ただし、この記述について元上官が名誉毀損で損害賠償を求めて提訴、二審まで公表・出版に公共性・公益目的性は認められたものの、事実であるか客観的証拠がないと判決され、最高裁で上告理由がないとして、損害賠償がそのまま確定した(後述東裁判)。 なお、東証言では1938年(昭和13年)4月5日に棗荘付近の部落で中国人男性を布団巻きに石油をかけて燃やした事件も記載されているが、裁判では問われなかった。
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