道(みち)としての東山道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 07:30 UTC 版)
律令時代の東山道は、畿内から陸奥国へ至る東山道諸国の国府を結ぶ駅路で、現在の東北地方へ至る政治・軍事面で重要な最短距離路だった。 律令時代に設けられた七道の中で中路とされた。陸奥国府(多賀城)からはさらに北へ鎮守府(北上盆地内)まで小路が伸びていた。東山道には、駅伝制により30里(約16 km)ごとに駅馬(はゆま)10頭を備えた駅家(うまや)が置かれていた。 飛騨国へは美濃国府を過ぎた現在の岐阜市辺りから支路が分岐していた。 美濃国・信濃国(伊那盆地)間は神坂峠を通った。信濃国内では松本盆地と上田盆地との間の保福寺峠を通った。信濃国・上野国間は碓氷峠を通った。 武蔵国は奈良時代当初は東山道に属し、東山道の枝道として東山道武蔵路が設けられた。その経路は上野国新田より南下し武蔵国府(現・府中市)に至り、同じ路を戻って北上し下野国足利へ進むコース(またはこの逆)が東山道の旅程であった。 出羽国へは、小路とされた北陸道を日本海沿岸に沿って延ばし、出羽国府を経て秋田城まで続いていたと見られている。そのほか、多賀城に至る手前の東山道から分岐して出羽国府に至る支路もあったと見られている。 東山道の建設については誰が計画してそれを実行したかほとんどわかっていないが、断片的な記録として大宝2年(702年)12月10日『続日本紀』に、初めて「初めて美濃の国に岐蘇(きそ)の山道を開く」との記録がある。この記述が示す地域の経路は、美濃国の坂本駅(現・中津川市)から神坂峠を越え伊那谷に至るルートを取っている。また『続日本紀』には、天平9年(737年)に東山道の北端にあたる陸奥国から出羽国に通じる新道の建設工事の様子を示す記述も残されており、陸奥国の鎮守府将軍である大野東人が軍隊を率いて、色麻柵(しかまのき、現・宮城県加美町)から急峻な奥羽山脈を越えて、出羽国最上郡玉野(現・山形県尾花沢市)を経て、北の比羅保許山(ひらほこやま、現・山形県金山町付近)まで至る160里の道を開発したとされる。 平安時代には、平安京(京都)との間の運脚(運搬人夫)の日数(延喜式による)は以下の通り。括弧内は陸路の行程日数で、前者が上り(平安京方面)で後者が下り。上りは調と庸とともに旅費にあたるものも携行したため、下りの約2倍の日数を要したとされる。 東山道:近江国府(1日/0.5日)、美濃国府(4日/2日)、信濃国府(21日/10日)、上野国府(29日/14日)、下野国府(34日/17日)、陸奥国府(50日/25日) 支路:飛騨国府(14日/7日) 北陸道:出羽国府(47日/24日) 江戸時代になると、江戸を中心とする五街道が整備され、幹線道路としての東山道は、中山道・日光例幣使街道・奥州街道などに再編された。
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