運輸大臣の調停
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一方、駿豆鉄道が実力行使に出た直後の同年7月6日に、横浜地方裁判所小田原支部では両社から申請されていた仮処分については、乗り入れ協定に定められた契約期間を根拠に駿豆鉄道側の主張を認め、箱根登山鉄道に対し、自動車専用道路の早雲山線への乗り入れを禁止する決定を下した。箱根登山鉄道はこれに対して東京高等裁判所へ即時抗告し、東京高裁では箱根登山鉄道の主張を認めてこの案件を横浜地裁小田原支部に差し戻した。 こうした法廷闘争のさなか、西武側は突然小田急の株式の買占めを図り127万株を取得、小田急側もこれに応戦することとなった。こうした状況を鑑みて、1957年7月6日には運輸大臣の宮沢胤勇が調停に乗り出した。調停案の内容は、西武側は小田急の株式を小田急側に引き渡した上、双方共にすべての訴訟案件を取り下げ、自動車専用道路早雲山線への乗り入れについては1年間継続している間に解決する、というものであった。ところが、その4日後に内閣改造により宮沢が辞任となったため、この調停案のうち実際に行なわれたのは、小田急株式の引渡しのみであった。 なお、駿豆鉄道は1957年6月1日に社名を伊豆箱根鉄道に変更した が、箱根を舞台に争っているのに、社名が伊豆と駿河を表しているのでは戦いづらいためとみられている。 その後、1959年4月には自動車専用道路早雲山線に関する問題において伊豆箱根鉄道側の主張が認められ、箱根登山鉄道の敗訴となった。箱根登山鉄道は控訴したが、1961年3月に棄却されてしまった。さらに、法制局は1959年9月に、自動車道における限定免許においては「建設または維持管理において、自動車道の事業を行う者の寄与が大きい場合は、限定免許が可能」という見解を出した。つまり、自動車道の建設や維持に事業者自身が大きく関わっている場合は、通行可能なバスを限定することが可能である、というものであった。一連の事態は伊豆箱根鉄道側に有利に進んでいったのである。 この見解を受け、伊豆箱根鉄道は「自社の運営する自動車専用道路3路線(早雲山線・十国線・駒ヶ岳線)については、路線バスは伊豆箱根鉄道のバスに限る」とする限定免許の申請を運輸大臣と建設大臣に申請した。これに対して、箱根登山鉄道は「法制局の見解には重大な誤りがある」として運輸大臣と建設大臣に上申したり陳情を繰り返すことで抵抗した。この結果、伊豆箱根鉄道が限定免許を取得したのは駒ヶ岳線のみで、早雲山線と十国線についての限定免許は交付されなかった ため、伊豆箱根鉄道も限定免許促進の陳情を行った。 1960年になって、運輸大臣の楢橋渡が調停に乗り出すことになり、同年7月9日に聴聞会を開くこととし、当日は双方から数人ずつが8時間にわたって自説を主張した。この日には決着はつかなかったため、同年7月14日に2度目の聴聞会を開くことでいったん終了した が、その後当時の岸内閣の総辞職によって2度目の聴聞会は開かれることはなかった。
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