運輸一般労組
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 22:30 UTC 版)
「アーネスト・ベヴィン」の記事における「運輸一般労組」の解説
1922年にベヴィンが創設者の1人として携わった運輸一般労働組合(TGWU)は、すぐにイギリス最大の労働組合になった。組合の書記長選挙で、彼はイギリスの優れた労働階級指導者の一人となり、彼らは労働党において最も強い支持者となった。政治的に彼は労働党の右派であり、共産主義や直接的な行動に強く反対していた。その理由の一端としては、彼が被害妄想的な反ユダヤ主義者で、共産主義をイギリスに敵対する「ユダヤ人の陰謀」と見なしていたとも伝えられている。ベヴィンは1926年にイギリスのゼネラル・ストライキに参加したが、そこに熱意は無かった[要出典]。 ベヴィンは議会政治に大した信念を持っていなかったが、それにも関わらず結成時からの労働党会員であった。1918年の総選挙ではブリストル中央区で戦うもうまくいかず、保守連合のトーマス・インスキップ(英語版)に敗北した。ベヴィンは、初めての労働党(出身の)首相ラムゼイ・マクドナルドとの関係が疎遠で、1931年の経済危機においてマクドナルドが保守派と国家政府を結成した(このためマクドナルドは労働党から追放された)際にも、彼に驚きはなかった。 1931年の総選挙で、ベヴィンはゲーツヘッドで争うよう残りの労働党指導者らに説得され、これが成功すればTGWUの書記長でいられることを理解した。国家政府の圧倒的勝利は、ゲーツヘッド(の選挙戦)にて自由党のトーマス・マグネイ(英語版)を相手に大差で敗北する結果に終わった。 ベヴィンは、組合員への物的恩恵は直接交渉を通じて獲得するもので、ストライキ行動は最後の手段として使われるべきだ、と信じていた労働組合員だった。例えば、ベヴィンは30代後半に有給休暇を従業員のより広い範囲に拡大するという労働組合会議(TUC)によるキャンペーンを推進し、成功に導く手助けを行った。これがついには1938年の休日賃金法になり、1939年6月までに有給休暇の資格を有する労働者が約1100万人に増加した。
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