運用及び変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/28 00:25 UTC 版)
「京都市交通局1000形電車」の記事における「運用及び変遷」の解説
1000形は登場後広軌線の各車庫に分散配置され、当初の目的どおり広軌1形単車を置き換えて、輸送力増強に大いに貢献した。運用面では、現在の宝ヶ池子供の楽園にあった宝ヶ池競輪場への観客輸送のため、京都駅・壬生車庫前から京福電気鉄道叡山本線宝ケ池駅まで乗り入れた点が特筆される。乗り入れは新造直後の1949年12月から、市電全線がビューゲル化された1955年8月末まで実施された。競輪開催日のほか、1954年7月13日と1955年7月12日の宝ヶ池での花火大会に際しても臨時に実施された。これは後年の広島電鉄の市内線 - 宮島線の乗り入れや土佐電気鉄道後免線 - 安芸線の乗り入れの先駆となるものであった。元田中 - 宝ケ池間では、ノンストップで運行されていた。叡電内でのノンストップ運行について、加藤幸弘は1000形の電動機がSS-50だったために「京福の電車に追いつかれないよう必死で逃げる」運用だったと記し、福田静二は他の電車が各駅停車のため「客扱いは行わないものの各駅に停車して時間調整をしたと言う」と記している。なお、乗り入れ廃止の理由としては上記の集電装置の変更に加え、市議会で競輪場の運営が問題視されたという側面もある。 また、車体が大きかったことから、急曲線が続く伏見線棒鼻以南では、戦後軌道中心間隔が拡幅されたものの、1000形が入線すると曲線区間で接触事故を起こす恐れがあったため、同区間に入線することができなかった。 その後、1955年には集電装置をビューゲルに取り替えたほか、翌1956年には車掌の合理化のために中央扉を閉鎖、扉部分に座席を延長して2扉化した(2扉化について、資料によっては1958年実施というものもある)。また、1955,1956,1963年には、主電動機SS-50を、SS-60(定格出力45kW)に換装する改造を18両に実施(1001~1014,1029~1032)したが、残り14両は未施工であった。なお、捻出されたSS-50は、800形第3グループの新造時に有効活用されている。このほか、1962年には全車に車内放送装置が取り付けられたほか、800形に準じる形で行先方向幕の大型化も行われた。
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