運用と生産
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/12 17:32 UTC 版)
増加試作機は実用試験のため6機が軽巡大淀に搭載されトラック島方面に進出した他、1944年(昭和19年)6月にはパラオのアラカベサン水上基地に配備され索敵偵察や哨戒任務に使用された。 文献では補助フロート折損による横転事故や、2重反転プロペラの故障が多発、主フロートの飛行中の落下がうまくいかないなどで敵機より逃亡できず、3ヶ月程の短期間で全機喪失とするものが多い。しかし、実際にはアラカベサン水上基地に進出できた紫雲は3機だけであり、またフロートの投下は行わなかっただけで不具合があったわけではなく、対潜哨戒任務に出て敵機に追われた機は被弾しつつも生還したことが記録されている。 制式採用後、1943年(昭和18年)に5機、1944年(昭和19年)に2機の量産機が製作された時点で生産は中止された。総生産機数は、試作機、増加試作機を含めて15機に終わった。当初は17機量産予定だったといわれる。量産打ち切りの原因については、実用試験の成績不良のためとする説がある一方、実際は戦局の緊迫による方針変更が原因であるとする説もあり、後者の説によれば搭載予定の軽巡大淀から紫雲用の長大なカタパルトが既に撤去されていたことにそれが窺え、改良型の計画がなかったのもそのためであるという。しかし、ミッドウェーでの敗戦のち大淀を空母に改造する案が出た際に、大淀に搭載する機体数18機のうち、戦闘機9機、紫雲を改造した高速艦上偵察機9機とする案が出ている。 本機の実戦としては、1944年6月のサイパンの戦いの事前空襲の際に、父島で2機が破壊された記録がある。湾内の波が高かったため発進できず、地上で炎上して失われた。 後に開発された水上戦闘機の強風は層流翼や自動空戦フラップを採用しつつ、紫雲の失敗を教訓にフロートの引き込みや2重反転プロペラなど問題が発生した機構を廃し現実的な設計に纏められた。
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