運用と評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 03:50 UTC 版)
1855年10月3日(安政2年8月23日)、完成した試作蒸気船(後の「雲行丸」)は、江戸の薩摩藩邸前の海で試運転を実施した。品川沖に停泊中の薩摩藩製軍艦「昇平丸」付近まで航行し、成功と認められた。1857年(安政4年)には薩摩本国へと回航されることになり、同年秋には本国でも試験航海を行っている。 こうして一応は稼働に成功し日本最初の国産蒸気船となった「雲行丸」であったが、技術的な完成度は低かった。特に蒸気漏れが激しく、後に鹿児島湾内に係留された同船を観察したオランダ人ホイセン・ファン・カッテンディーケによれば、設計出力12馬力と推定されるところ実力は2-3馬力に過ぎなかったという。最高速力は6丁櫓の小舟並みと記録され、4-5ノット程度と推定される。「雲行丸」と並行して薩摩本国で試作された機関は、さらに不具合が多く、船載試験も行われたものの失敗に終わった。 しかし、不完全ではあっても、ほとんど独学で初めて蒸気機関と蒸気船を製造したという意味では、「雲行丸」建造は画期的な事業だったと評価される。ホイセン・ファン・カッテンディーケも、簡単な図面を頼りに蒸気機関を完成させた人物には非凡な才能があると驚いている。 その後、「雲行丸」は輸送船や連絡船として使用された。この間、長崎でオランダ人の指導の下で蒸気機関の改修工事を受けたとも言われる。明治維新後は使用されない状態となり、明治20年代にスクラップとして売却された。蒸気機関は海軍兵学校の教材となっていたが、やはり明治時代中ごろに廃棄処分となってしまった。現存するのは、記憶によって作成された不正確な絵図や、少数の機関図面だけである。
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