逮捕・戦後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 00:39 UTC 版)
クラウス・フォン・シュタウフェンベルクらによるヒトラー暗殺未遂事件が発生した1944年7月以降、国防軍の将官が親衛隊により大量に逮捕され拷問を受けた。そうした取り調べの中で1938年のクーデター計画が浮上し、ハルダーは妻や長女と共に逮捕され、フロッセンビュルクにある強制収容所に送られた。1945年1月に公式に軍籍を剥奪され、その後ダッハウ強制収容所に移された。やがて4月にシュタウフェンベルクの家族や他の「特殊な」囚人ら140名と共に南チロル地方に移された。当初はライヒェナウ収容所に収監されるはずだったが収容所側がその人数を受け入れる事が出来なかったため、ニーダードルフ(現ヴィッラバッサ)のホテルに収監される事になり、28日に到着する。移送を担当していた親衛隊の指揮官は「もし囚人達が連合国側の手に渡る危険性がある場合は処刑せよ」と密命を受けていたのだがそれに気付いた囚人側がボーツェン(現ボルツァーノ)の国防軍司令部に連絡し、身柄の保護を要請していたためニーダードルフ近辺に駐屯していたヴィヒャルト・フォン・アルフェンスレーベン大尉(en)に囚人保護の命令が下され、大尉は部隊を率いてニーダードルフに急行した。4月30日、アルフェンスレーベン大尉の部隊に村をほぼ包囲され、アメリカ軍までチロルに迫っている事を知っていた親衛隊員達は任務を放棄して逃亡、ハルダー達は国防軍に保護される事になった。その後ハルダーらは5月4日にチロルに到達した第7軍の先遣部隊に引き渡され、アメリカ軍の捕虜になった。 しかしヒトラーとの対立や1938年のクーデター計画に加わっていた事、それにしばらく強制収容所に収監されていたと言う経歴がハルダーに幸いする。その結果、上記のようにポーランド侵攻、西方侵攻、それにバルバロッサ作戦などの作戦策定に参謀総長として関わっていたのにもかかわらず彼は連合軍により反ヒトラー派将校の一人として破格の扱いを受ける事となる。ハルダーはイタリアにあるアメリカ軍捕虜収容所で夏まで過ごしたのち、特に戦争犯罪で訴追される事は無くあっさり釈放され、1946年から1961年までアメリカ陸軍戦史研究部ドイツ支所(ドイツ語版)の所長として働いた。現在一般的な第二次世界大戦の戦史記述は、ハルダーによる影響が大きい。退職時の1961年にアメリカ陸軍から、一般市民に対する最高の勲章である市民功労勲章を授与されている。1972年4月2日、バイエルン州アッシャウ・イム・キームガウで死去した。
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