近隣の埋め立ての歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/18 09:38 UTC 版)
「大柏川第一調節池緑地」の記事における「近隣の埋め立ての歴史」の解説
調節池緑地を擁す地域は時代と共に次第に埋め立てられ、畑の耕作地化や市街地化とともに溢水(いっすい)や越水に見舞われているが、埋め立てにより湿地としての貯水能力が失われたことにも起因する。戦後の頃は大野町4丁目の市川市霊園付近から真間川に合流する八幡6丁目まで畦道を歩いて行くことが出来たと伝えられる。 明治末葉(まつよう)(末期):北方町北方町四丁目、86haを耕地整理し、50余年農地として利用、昭和42年に区画整理を行い、翌43年に完工。 1942年(昭和17年):下貝塚3丁目地区、中山市兵衛を発起人とする30戸、学生、勤労報国隊らによる戦時の食糧増産国策に沿う全国に範となる埋め立て、約32ha 1972年(昭和47年) - 1978年(昭和53年):本北方3丁目、美濃輪台遺蹟近傍地区、美濃輪土地区画整理組合、約5.8ha 1970年(昭和45年)頃: 柏井2丁目浜道地区、市川市による勤労者向け宅地化、約6ha 1973年(昭和48年) - 1979年(昭和54年):大野町の一部と南大野の全域、市川大野土地区画整理組合、72.7ha 1975年(昭和50年)代中頃から -1988年(昭和63年)頃まで:北方町、個人による自分の地所の順次埋め立て、約60ha 2008年(平成20年)6月 - 2009年(平成21年)8月:柏井2丁目武蔵野線高架下、農地化、0.6ha このほか大柏川両岸にあたる奉免町、宮久保、東菅野、本北方や大野町の一部も戦後の経済成長と共に埋め立てられ市街地となった。埋め立て後も調整池緑地付近の広い個々人の地所は市街化調整区域であり住宅などは少く畑地や僅かな倉庫などである。また調整池開園後も地域全体では平成時代に入っても宅地やコンビニエンスストア、店舗などへと替わっている。
※この「近隣の埋め立ての歴史」の解説は、「大柏川第一調節池緑地」の解説の一部です。
「近隣の埋め立ての歴史」を含む「大柏川第一調節池緑地」の記事については、「大柏川第一調節池緑地」の概要を参照ください。
- 近隣の埋め立ての歴史のページへのリンク