近代以降の秋目
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 02:50 UTC 版)
明治5年に大区小区制が施行され、南方郷は第19大区となり、久志村と秋目村で1つの小区が組織された。1879年(明治12年)に郡区町村編制法が施行され秋目村に戸長役場が設置されたが、1882年(明治15年)に戸長役場が久志村と統合された。 1889年(明治22年)4月1日には、町村制が施行されたのに伴い、南方郷の西部にある坊村、泊村、久志村、秋目村の区域を以て川辺郡西南方村(にしみなみかたむら)が成立した。これに伴い、それまでの秋目村は西南方村の大字「秋目」となった。 西南方村が成立したのちも旧来の村の単位で戸主会や総代会が組織された。戸主会や総代会は区有財産の管理を行っていたほか、地域住民の代弁者として村政に対して強い発言権を有するもので、大字秋目の地域では「秋目総代会」が組織された。特に秋目は他の西南方村の各地域から見て西加世田村大字大浦(現在の大浦町)を挟んだ飛び地となっており、かつ交通の便が非常に悪かったことから人的交流が少なく強い自治意識が生まれたという。 1907年(明治40年)には秋目の住民から、西南方村から分離し人的経済的な交流があった西加世田村(のちの笠沙町と大浦町)に編入したい旨が提議されたが、その後秋目出身の丸野氏が西南方村長に就任したことにより、一旦この問題に関しては終息した。 1953年(昭和28年)には西南方村が名称を変更し坊津村(ぼうのつむら)となり、坊津村の大字となった。この村名変更に際して「坊津村」への名称変更を推進する坊と泊の住民に対して、秋目と久志の住民は「坊津以外であれば何でもよい」として反対した。この結果村議会で紛争し、最終的には村議会は坊泊と秋目久志に分村を議決する事態に発展した。分村が議決されたことに伴い西南方村は鹿児島県に対して分村申請書を提出したが、申請を受けた鹿児島県は坊泊は経済的に自立可能であるが、秋目と久志は経済的に自立不可能であるとして申請を認めなかった。その後1953年(昭和28年)に地域住民間の感情的な対立が解けたとして、村議会において村名の変更の件が議決されたという経緯がある。 名称変更の2年後の1955年(昭和30年)に町制施行し坊津町となり、坊津町の大字となった。1966年(昭和41年)には、鑑真上陸1200年を記念して鑑真記念館付近に「和上上陸記念碑」が建立され、中華人民共和国との交流が行われた。 2005年(平成17年)11月7日に坊津町が加世田市、金峰町、笠沙町、大浦町と合併し新たに南さつま市が設置された。市町村合併の際に法定合併協議会である川辺地区合併協議会における協議によって、坊津町の区域の大字は現行の町名を現行の大字名に冠したものに改称する旨が協定され、合併前の同年10月21日に鹿児島県の告示である「 字の名称の変更」が鹿児島県公報に掲載された。この告示の規定に基づき合併と同日に名称の変更が行われ、大字名が「秋目」から「坊津町秋目」に変更された。
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