跡を示す石碑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 04:41 UTC 版)
豊浦皇居址の碑 - 画像 伝承上では仲哀天皇が建てたとされる「豊浦宮」が忌宮神社境内にあったことを示す石碑。石碑の題字は従三位勲一等の内田重成によるもので昭和34年(1959年)4月に豊浦史跡保存会が建立した。元々は「忌宮公園落成記念碑」と呼ばれる別の石碑があったが金属類回収令で銅製であったために回収され、台座のみが豊浦皇居址の碑に用いられている。豊浦宮の詳細については古代節の仲哀天皇節を参照。 櫛崎城址の碑 - 画像 櫛崎城址と刻まれた石碑。豊浦高校グラウンド横道から坂を登って豊功神社に行くまでの道の途中にある。 敬業館及集童場址の碑 - 画像 敬業館の跡地に建てられた石碑。 国分寺址の碑 画像 吉岡家長屋のある十字路に設置された「国分寺址」と書かれた石碑。隣には発掘された礎石が置かれている。 土肥次郎實平之城址の碑 - 画像 長府侍町一丁目の土肥山団地公園にある石碑で「土肥次郎實平之城址」とのみ書かれている。設立日は大正11年(1922年)3月15日。設立者は桂弥一だがもともとは山中に建てており、現在地へ移ったのは昭和50年代後半である。土肥山城については中世節の土肥山城節を参照。 和同開珎鋳銭場址の碑 - 画像 覚苑寺入口左側にある「和同開珎鋳銭場址」と書かれた石碑。石碑に書かれた正二位素介とは4代目下関市長の高洲素介のことで、彼がこの石碑に書いた。 乃木將軍舊邸の碑 - 画像 大正3年(1914年)9月13日に乃木記念会により建てられた石碑。乃木旧邸の入口に建てられた。 狩野芳崖邸址の碑 - 画像 長府印内町にある狩野芳崖の邸宅があったことを示す石碑。 さか松の碑 - 画像 かつてさか松が植えられていたことを示す石碑。忌宮神社境内にある。石碑には「神功皇后御手うゑ さかまつ」と書かれている。さか松については忌宮神社節を参照。 豊浦池舊跡の碑 - 画像 豊浦の池があったことを示す石碑。長府古江小路町にある。また、長府惣社町の旧長府毛利邸入口右にもその跡があり、石碑もある(画像)。豊浦の池については地理節池節の豊浦の池節を参照。 集童場々長室の碑 - 画像 集童場の場長室を昭和3年(1928年)3月21日に移転されると同時に建てられた石碑。題字は元長府町長の原田政佳が書いたものである。場長室には集童場で活躍した熊野則之、乃木希典、桂弥一、服部潜蔵、滝川弁三、福田扇馬、福原和勝、横畠武二、岡崎章介、原田政佳の写真が並べられている。 女流俳人菊舎尼宅址の碑 - 画像 印内町のかつて田上菊舎の家があった場所に建てられた石碑。隣の案内板には菊舎の「山門を 出づれば日本の 茶摘唄」という歌が紹介されている。
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