贋作のお披露目
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/28 01:54 UTC 版)
「アイアランド贋作事件」の記事における「贋作のお披露目」の解説
発見された時から、サミュエルはその所有物を見せるために友人を招待していた。1794年12月20日、フレデリック・エデンはフレイザーの契約書類に貼られた封蝋を調査するためにやって来た。フレデリック・エデンは、その封蝋には槍を突く練習に使われる装置である槍的が描かれていると知らせ、それはシェイクスピアが自身の名前のシャレとして使用していたものであると結論付けた。 しかしサミュエルは1795年2月、文学者に対し、自宅に来てこれらを調査してほしいという一般向けの招待を出した。すると展示会は大盛況となった。サミュエルによる「信仰宣言書」の朗読を聞いていたサミュエル・パールとジョゼフ・ウォートンは、その文書は英国内のどの典礼式文よりも優れていると宣言し、ジェイムズ・ボズウェルはこれらの遺物にキスをするために跪いた。スコットランドの古物研究家ジョージ・チャルマーズと教育学者リチャード・バルペイは頻繁に訪問し、編集者ジェイムズ・ボーデン、作家ハーバート・クロフト、そしてとりわけ桂冠詩人ヘンリー・ジェイムズ・パイは、公にこれらの文書の真正性を信じていると証言した。 レスター伯が書いただろうとされる文書の日付が1590年となっているのに対し、その貴族は1588年に亡くなっていることに用心深い訪問者が注目したことによって、とある引っ掛かりが生まれるようになった。サミュエルが息子に対してこの情報を突きつけたとき、ウィリアム・ヘンリーはその文書を燃やしてしまうことを望んだものの、サミュエルはそれを燃やすことに躊躇した。ウィリアム・ヘンリーは、文書は後になってから間違った日付が書き込まれてしまったのだろうと主張し、2人は日付の部分を切り取ってしまうことで合意した。その品は日付が切り取られた状態で展示され、後にそのままの状態で印刷された。少なくとも2名の学者、古物研究家ジョゼフ・リットソンと古典学者リチャード・ポーソンは、これらの文書は正確にも贋作であると考えており、編集者ヘンリー・ベート・ダドリーは早くも1795年2月17日には風刺文で攻撃を開始していた。 サミュエルが当時最も偉大だった2名のシェイクスピア学者、エドモンド・マローンとジョージ・スティーヴンズを文書の調査に招待していなかったことから、民衆の間では疑念が生じていた。とある文筆家は、「ファーマー博士、スティーブンズ氏、もしくはマローン氏にこれらの驚異的な文書が本物だと見なされれば、民衆は間違いなくそれを知って満足しただろう。こうした人々は文学の世界で評判が高いので、折り紙付きということになる」と書いていた。サミュエルは後に、彼が「マローンの閲覧により与えられるであろうお墨付きについては異なる意見だった」と述べた。それにもかかわらず、サミュエルはリチャード・ファーマーに文書を閲覧してもらえるように試み、それは失敗に終わった。 民衆の興奮を掻き立てた展示会は1年以上続いた。11月7日、サミュエルとその息子はクラレンス公ウィリアムとジョーダン夫人のいるセント・ジェームズ宮殿まで文書を持参し、12月30日にはカールトン・ハウスのウェールズ公ジョージにそれを提出した。
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