贋作の暴露
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/29 10:13 UTC 版)
「ウィリアム・ヘンリー・アイアランド」の記事における「贋作の暴露」の解説
批評家たちがサミュエル・アイアランドに迫り贋作者として非難したとき、息子ウィリアム・ヘンリーは告白本An Authentic Account of the Shaksperian Manuscriptsを出版した。しかし多くの批評家は、この若者が全てを一人で偽造したとは信じられなかった。とある新聞は、ウィリアム・ヘンリー以外の家族がさらなる贋作物の制作を行っているとき、ウィリアム・ヘンリーが発見物に圧倒されている風刺画を発表した(実際に行われていたこととは逆であるが)。サミュエル・アイアランドの評判は1800年の死去まで回復することはなかった。 1805年、ウィリアム・ヘンリーはThe Confessions of William Henry Irelandを出版したが、この自白はウィリアム・ヘンリーの名声の助けにはならなかった。 ウィリアム・ヘンリーは下働きの作家として多方面の仕事を引き受けたが、常に金欠の状態であった。1814年にウィリアム・ヘンリーはフランスへ移り住み、フランス国立図書館で働いた一方で、ロンドンでの書籍出版を続けた。1823年にロンドンへ帰ってきたとき、ウィリアム・ヘンリーは再び貧乏生活を始めることとなった。1832年、ウィリアム・ヘンリーは自らの版の『ヴォーティガンとロウィーナ』を自身の作品として出版したが(父サミュエルは1799年に原版を出版していた)、ほとんど成功しなかった。 最近の学術的な関心は、ウィリアム・ヘンリーのゴシック小説や詩に向けられている。ウィリアム・ヘンリーの図説Historiesは有名であり、不遇のまま亡くなったというのは恐らく不正確である。しかしながら常に貧困に喘ぎ、債務者監獄にて多くの時間を過ごし、しばしば友人や見知らぬ人からの借金を余儀なくされていた。ウィリアム・ヘンリーが死亡した際、寡婦や娘達は文学基金に救援を申し込んだが、申し訳程度の額しか受け取ることはできなかった。 ウィリアム・ヘンリーがチャールズ・ラムやチャールズの実姉メアリー・ラムと接触したという歴史的根拠はないものの、ピーター・アクロイドが2004年に出版した小説The Lambs of Londonのなかでウィリアム・ヘンリーは主要な登場人物となった。アクロイドは自身の物語の中で、史実に対して自由に多くの脚色を加えた。
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