豊橋松竹映画劇場とは? わかりやすく解説

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豊橋松竹映画劇場

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/12 02:48 UTC 版)

豊橋松竹映画劇場
Toyohashi Shochiku Theater
豊橋松竹
情報
通称 豊橋松竹、ピカデリー1・2・3
正式名称 豊橋松竹映画劇場
開館 1947年5月
閉館 2000年5月31日
最終公演アナザヘヴン』(飯田譲治監督)他
収容人員 (4スクリーン)773人
客席数 松竹:116席
ピカデリー1:361席
ピカデリー2:198席
ピカデリー3:98席
(いずれも閉館時点)
設備 DOLBY STEREO
用途 映画館
所在地 440-0076
愛知県豊橋市花田町
(現在の同市大橋通2丁目125号、現況は愛知県信用保証協会東三河支店)
位置 北緯34度45分58.1秒 東経137度22分57秒 / 北緯34.766139度 東経137.38250度 / 34.766139; 137.38250座標: 北緯34度45分58.1秒 東経137度22分57秒 / 北緯34.766139度 東経137.38250度 / 34.766139; 137.38250
最寄駅 JR豊橋駅
豊橋鉄道渥美線新豊橋駅
最寄バス停 豊鉄バスこども未来館・商工会議所」停留所
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豊橋松竹映画劇場(とよはししょうちくえいがげきじょう)は、愛知県豊橋市花田町にあった映画館。1947年に開館し、2000年に閉館した。

歴史

豊橋劇場(1899-1945)

戦前に同一場所にあった豊橋劇場

近世の吉田(今日の豊橋)は吉田城城下町東海道宿場町として栄え、1889年(明治22年)には町制を施行して豊橋町となった。1899年(明治32年)3月1日、豊橋劇場が開館した[1]。明治時代の豊橋には豊橋劇場のほかに、東雲座、朝倉座、宝栄座、弥生座などの演劇場があった[2]

大正時代には映画の人気が高まるにつれて、劇場の映画館への転業や廃業が進んだ[3]。豊橋劇場は豊橋に最後まで残った劇場だったが、太平洋戦争中の1945年(昭和20年)6月19日深夜から20日未明の豊橋空襲で焼失した。この空襲では豊橋劇場のほかに、帝国館[4]、錦館[5]、キネマパワー[6]、花田館[7]、豊橋東宝映画劇場[8]も焼失しており、一時的に豊橋から映画館が消えている。

豊橋松竹映画劇場(1945-2000)

1947年5月、花田町石塚(大橋通)の豊橋劇場跡にキララ興行が豊橋松竹映画劇場として開館[9][10]。木造2階建、600人収容[10]。この時期の豊橋では相次いで映画館が開館しており、1945年末には帝国館の焼け跡に第一映画劇場が[11]、 新銭町に第二映画劇場が[12]、豊橋松竹と同じ1946年には松葉町に大劇が[5]、1947年には松葉町にメトロ劇場が[13]開館している。豊橋電気軌道本線(今日の豊橋鉄道東田本線)の路面電車が大橋通を走っていた[14]。1953年(昭和28年)には松竹の直営館となった[14]

1960年(昭和35年)12月17日[15]には鉄筋コンクリート造2階建・地下1階建の豊橋松竹会館という複合ビルに建て替え、豊橋松竹(334席)と豊橋名画座(486席)の2スクリーン体制となった[10][9]。1963年(昭和38年)には地下に松竹ロキシー(洋画99人)、2階に松竹シネマ(邦画104人)を開設[10]。豊橋松竹会館ビルはパチンコ店や喫茶店なども備える複合ビルだった[9]。豊橋名画座は東三河地方で唯一70mmフィルムを上映でき、立体音響に対応していた[9]

1985年(昭和60年)4月27日には豊橋名画座がピカデリー1に、松竹ロキシーがピカデリー2に、松竹シネマはピカデリー3に改称し、豊橋松竹と合わせて4スクリーン体制となる[10][16]。2000年(平成12年)5月31日をもって4館とも閉館[10]。跡地には愛知県信用保証組合東三河支店のビルが建っている[14]

戦後の豊橋市中心部に存在した映画館

脚注

  1. ^ 『豊橋の風景』p. 98
  2. ^ 『とよはしの歴史』p. 229
  3. ^ 『とよはしの歴史』、p. 277
  4. ^ 『豊橋百科事典』p. 442
  5. ^ a b 『豊橋百科事典』p. 386
  6. ^ 『豊橋百科事典』p. 175
  7. ^ 『豊橋百科事典』p. 584
  8. ^ 『豊橋百科事典』p. 514
  9. ^ a b c d 『戦後映画の黄金期 豊橋の映画館』
  10. ^ a b c d e f 『豊橋百科事典』p. 309
  11. ^ 『豊橋百科事典』p. 382
  12. ^ 『豊橋百科事典、p. 391
  13. ^ 『豊橋百科事典』p. 729
  14. ^ a b c 『豊橋市の今昔』, p. 135
  15. ^ 「映画館ニュース」『キネマ旬報』1961年1月15日、276号
  16. ^ 「本日リフレッシュオープン! 松竹豊橋会館開館25周年」『東海日日新聞』1985年4月27日

参考文献

  • 大林淳男・駒木正清(監修)『豊橋市の今昔』樹林舎、2016年
  • 豊橋市『とよはしの歴史』豊橋市、1996年
  • 豊橋市美術博物館『豊橋の風景』豊橋市美術博物館、2006年
  • 豊橋百科事典編集委員会『豊橋百科事典』豊橋市、2006年

豊橋松竹映画劇場(1945-2000)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/17 14:26 UTC 版)

「豊橋松竹映画劇場」の記事における「豊橋松竹映画劇場(1945-2000)」の解説

1947年5月花田町石塚大橋通)の豊橋劇場跡にキララ興行が豊橋松竹映画劇場として開館木造2階建、600収容。この時期豊橋では相次いで映画館開館しており、1945年末には帝国館焼け跡第一映画劇場が、 新銭町に第二映画劇場が、豊橋松竹と同じ1946年には松葉町大劇が、1947年には松葉町メトロ劇場開館している。豊橋電気軌道本線今日豊橋鉄道東田本線)の路面電車大橋通走っていた。1953年昭和28年)には松竹直営となった1960年昭和35年)には鉄筋コンクリート造2階建・地1階建の豊橋松竹会館という複合ビル建て替え豊橋松竹334席)と豊橋名画座486席)の2スクリーン体制となった1963年昭和38年)には地下松竹ロキシー洋画99人)、2階松竹シネマ邦画104人)を開設豊橋松竹会館ビルパチンコ店喫茶店なども備え複合ビルだった。豊橋名画座東三河地方唯一70mmフィルム上映でき、立体音響対応していた。 1985年昭和60年)には豊橋名画座ピカデリー1に、松竹ロキシーピカデリー2に、松竹シネマピカデリー3に改称し豊橋松竹合わせて4スクリーン体制となる。2000年平成12年5月に4館とも閉館跡地には愛知県信用保証組合東三河支店ビル建っている。

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