謀反説とその否定とは? わかりやすく解説

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謀反説とその否定

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 17:23 UTC 版)

豊臣秀次」の記事における「謀反説とその否定」の解説

謀反説は当時から世間では懐疑的に見られていた。『言経卿記』の記述によれば文禄4年7月8日関白殿ト太閤ト去三日ヨリ不和也、此間種々雑説有之、今日殿下伏見御出也」、13日昨日殿下禅定高野山御腹被云々言語道断也、御謀反必定風聞也」とあり、山科言経謀反単なるにすぎないのにそれで切腹とは言語道断だ怒っていて、「不可説」と説明できない事態の展開に憤慨していた。『御湯殿上日記』にも、7月8日、「今朝関白殿へ太閤より御使いありて。謀反とやらんの沙汰御入候て、太閤機嫌悪く御断り候まてとて、関白殿高野尾登りのよし申」、7月16日関白殿昨日十五日の四つ時に御腹切らせられ候よし申。無実ゆえかくの事候由申すなり」と書かれ、秀次は謀反疑い高野山入ったが、無実であったので切腹になったであろう端的に説明する。 『川角太閤記』では「御謀反毛頭おぼしめし寄りなき事後々只今までも御座なく候と、承り候。太閤御分別には、御存命の時さへ、か様に乱り御行(おてだて)の義候は、御他界後は、義理五常も御そむきなさるべきこと必定と、おぼしめされ候故、半分大きりも、右の様子は、御りんきと相聞こえ申し候事」として、冤罪であった断言しつつも、秀次の素行悪さ憂い将来禍根断ったであろう秀吉意思説明する。『当代記』では「関白秀次太閤頃日謀反の企露之由あって、七月八日関白聚楽第退出、即出家高野山、同十五日腹を切御、秀次若君二人一二歳の孩児、并近習女房餘輩、渡洛中切捨らる、誠は秀次逆心之儀虚言と云へ共、行跡不穏便飢故、治部少依讒言如此、」と、謀反明確に否定しつつも、それを石田三成讒言説へと展開している。 『太閤さま軍記のうち』では木村常陸介粟野木工頭が「陰謀さしはさみ」と秀次を唆したというものの、何れの話においても漏れ聞こえてきたという謀反風聞そのものについて少しも具体ではなく鹿狩夜興で武装していたことが野心表れ咎められたというぐらいで、謀反実体書いた物はなかった。それどころ多く書物では疑われ謀反はなかったと否定されのである

※この「謀反説とその否定」の解説は、「豊臣秀次」の解説の一部です。
「謀反説とその否定」を含む「豊臣秀次」の記事については、「豊臣秀次」の概要を参照ください。

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