調査歴
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南大伴町と山中田町のすぐ南方に位置する河南町寛弘寺では、古くから「寛弘寺の七つ墓」(寛弘寺古墳群のツギノ木山支郡)として古墳の存在が知られていた。また、山中田町の丘陵北端下の田中では、江戸時代中期には夫婦塚もしくは大伴黒主の墓とされる古塚が知られていた。 近代には丘陵西側で石室をもつ2基の古墳(字宮山の夫婦塚)が確認されており、寛弘寺から富田林市にかけての丘陵で多数の石棺が出土することが知られていた。1955年に刊行された『富田林市誌』には、篝山古墳群として丘陵北端の最高所と南方100メートルの地点(西大寺山古墳)で、古墳の存在が報告されている。 1978年に刊行された『富田林市遺跡分布図』では、西大寺山古墳と西大寺山北古墳(丘陵北端の最高所)のみが記載されている。ただし、分布図の西大寺山古墳の位置は西大寺山北古墳から南西200メートル地点であり、市誌の記述とは異なっている。1985年に刊行された『富田林市史 第1巻』において執筆者の北野耕平らによって実見されたが、開墾によって両古墳の墳丘は破壊されていたため、市誌の記述を紹介するにとどまっている。 1982年に河南町寛弘寺で圃場整備に伴い寛弘寺古墳群の分布調査が行われ、丘陵上に多数の古墳が発見された。その後、1980年代に富田林市側の丘陵上でも分布調査が行われ、西大寺山古墳と西大寺山北古墳を合わせて計16基の古墳が発見された。また、西大寺山古墳と西大寺山北古墳は前方後円墳と判明した。これら16基は西大寺山○号墳とナンバリングされ、西大寺山北古墳は西大寺山1号墳、西大寺山古墳は西大寺山5号墳にあたる。市誌で記述された西大寺山北古墳の南方100m地点の尾根上では3基の円墳(2-4号墳)が確認されている。 1996年に丘陵北西部の宅地開発に伴って9基の古墳が発見され、発掘調査が実施された。これら9基は山中田○号墳とナンバリングされ、山中田古墳群として報告される場合もある。
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調査歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/10 05:55 UTC 版)
第一次調査(昭和36年):浦和第一女子高等学校郷土研究部による調査。住居跡4軒を検出し、2軒を完掘。 第二次調査(昭和40年):住居跡1軒、土坑、埋葬人骨を検出。神明貝塚を一躍有名にした調査。 第三次調査(昭和53年):史跡化へ向け、遺跡範囲の確定に向けた範囲確認調査。 第四次調査(平成14年):市道拡幅に伴う緊急調査。平成21年より保存目的の調査が毎年度行われている。 平成28年6月には縄文人3体の人骨を発掘した。
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