調査・歴とは? わかりやすく解説

調査歴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/29 23:30 UTC 版)

西大寺山古墳群」の記事における「調査歴」の解説

南大伴町山中田町のすぐ南方位置する河南町寛弘寺では、古くから「寛弘寺七つ墓」(寛弘寺古墳群のツギノ木山支郡)として古墳存在知られていた。また、山中田町丘陵北端下の田中では、江戸時代中期には夫婦塚もしくは大伴黒主の墓とされる古塚知られていた。 近代には丘陵西側石室をもつ2基の古墳(字宮山夫婦塚)が確認されており、寛弘寺から富田林市にかけての丘陵多数石棺出土することが知られていた。1955年刊行された『富田林市誌』には、篝山古墳群として丘陵北端の最高所南方100メートル地点西大寺山古墳)で、古墳存在報告されている。 1978年刊行された『富田林市遺跡分布図』では、西大寺山古墳西大寺山北古墳丘陵北端の最高所)のみが記載されている。ただし、分布図西大寺山古墳位置西大寺山北古墳から南西200メートル地点であり、市誌の記述とは異なっている。1985年刊行された『富田林市第1巻』において執筆者北野平らによって実見されたが、開墾によって両古墳墳丘破壊されていたため、市誌の記述紹介するとどまっている。 1982年河南町寛弘寺圃場整備に伴い寛弘寺古墳群分布調査が行われ、丘陵上に多数古墳発見された。その後1980年代富田林市側の丘陵上で分布調査が行われ、西大寺山古墳西大寺山北古墳合わせて16基の古墳発見された。また、西大寺山古墳西大寺山北古墳前方後円墳判明した。これら16基は西大寺山○号墳とナンバリングされ、西大寺山北古墳西大寺1号墳西大寺山古墳西大寺5号墳にあたる。市誌で記述され西大寺山北古墳南方100m地点尾根上では3基の円墳2-4号墳)が確認されている。 1996年丘陵北西部宅地開発伴って9基の古墳発見され発掘調査実施された。これら9基は山中田○号墳とナンバリングされ、山中田古墳群として報告される場合もある。

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調査歴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/10 05:55 UTC 版)

神明貝塚」の記事における「調査歴」の解説

第一次調査昭和36年):浦和第一女子高等学校郷土研究部による調査住居跡4軒を検出し、2軒を完掘。 第二次調査昭和40年):住居跡1軒、土坑埋葬人骨検出神明貝塚一躍有名にした調査第三次調査昭和53年):史跡化へ向け、遺跡範囲確定向けた範囲確認調査第四次調査平成14年):市道拡幅に伴う緊急調査平成21年より保存目的調査毎年度行われている。 平成28年6月には縄文人3体の人骨発掘した

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