夫婦塚
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三津から間人に到る街道筋にある古墳。伝承によれば、南朝の長慶天皇が退位後に病療養のために皇妃を同伴して但馬地方で湯治していたものの、思うような効果を得られず、風光明媚な療養地を求めて当地に滞在し、そのまま崩御した。悲嘆に暮れた皇妃や従者も殉死し、土地の人々の計らいで寝棺におさめて埋葬した場所であるという。
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夫婦塚(字夫婦塚)
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「夫婦塚 (富田林市)」の記事における「夫婦塚(字夫婦塚)」の解説
山中田と南大伴の境界付近、富田林街道(千早街道)に北面する土地である。地誌に記載される場所付近には夫婦塚という小字が残る。延宝7年に刊行された河内鑑名所記には「大伴黒主塚二つある故に夫婦塚というなり」とあり、挿絵にも田中に二つの塚が描かれる。和漢三才図絵、河内志、河内名所図会、山中田村明細帳(明治2年)、大阪府誌、大阪府全志などもこの地を載せる。河内鑑名所記以外で複数の塚について書かれたものはない。田中にあり、高さ4尺、周囲8間あまり、塚上には二又に分かれた松の木(夫婦松)が生えていたという。19世紀初頭の河内名所図会の段階で「近歳、発きて田園とす」とあるが、近代以降の地誌や明細帳にも存在や大きさが記されている。 伝説では開墾の際、土中から黒蛇が現れ山中田村に逃げ入り、村の半分以上が焼ける大火災が起きたという。この火災が黒主の霊の祟りだとして、南方の山に小祠を建てて黒主の霊を祀り氏神としたのが、現在の大伴黒主神社である。
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夫婦塚(字宮山)
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「夫婦塚 (富田林市)」の記事における「夫婦塚(字宮山)」の解説
山中田村の墓地に南接する山中にあったとされる南北に並ぶ2個の円墳である。南北に相対関係をもつことから夫婦塚と俗に称される。北側は高さ4から5尺、周囲5間あまり、石棺の蓋石と思われる岩石が露出していたという。南側は高さ3尺、周囲6間あまり、主体部の石組が露出していたという。 近代以降の文献にのみ記載される。大阪府史蹟名勝天然記念物と富田林市誌は夫婦塚もしくは大伴黒主の墓と言われるものは2説ありとして、両者を併記する。郷土史の研究はこちらを夫婦塚といい、大伴黒主墓を俗に夫婦塚というのは両者が混同されたものだとする。
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