話すことについて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 04:20 UTC 版)
ソクラテスは上手に語るためには対象の「真実」をよく知っていなくてはならないと考えるが、説得を目的とする弁論術(レートリケー)を「言論の技術(テクネー)」の名で広めている教師たちは、内容が正しいかどうかよりも、「群衆の心に正しいと思われるかどうか」が重要であることを説いている。この双方の考えの対立を背景として、ソクラテスがこの弁論術教師たちの主張を突き崩すべく話を進めていく。 ソクラテスは弁論術が物事の「類似性・混同」を利用して相手の魂を思い通りに誘導していく術であるならば、対象の「真実」を知っていて、他との「類似点」や「相違点」を正確に把握していなくては、そのようなことはうまくできないことを指摘する。特に「正しい」「善い」といった異論の多い抽象概念に関しては、そうした把握が大事になってくる。先の3つの話で扱った「恋」も同様で、最初のリュシアスの話はそれができていなかったが、2番目のソクラテスの話は冒頭で「恋」の定義を行っていた。また2番目の話と3番目の話で「恋」について反対の評価を下す話をしたし、3番目の話の中では「狂気」を4分類して説明した。 ソクラテスがなにげなく語った話の中でそうしたことができたのは、多様に散らばっている概念を「綜合・定義」し、また自然本来の分節に従って「分割」するという「2種類の手続き」を行ったからだという。ソクラテスはそれを「ディアレクティケー」(弁証術・問答法)と呼び、「レートリケー」(弁論術)と対置させる。 次にソクラテスは、「言論の技術(テクネー)」の名で多様に教科書が書かれ、教えられている弁論術の内容、例えば、 テオドロスの「序論・陳述・証拠・証明・蓋然性・保証(続保証)・反駁(続反駁)」で構成される法廷弁論術 エウエノスの「ほのめかし法」「婉曲賞讃法」「あてこすり法」 テイシアス・ゴルギアス・プロディコス・ヒッピアス等の話術 ゴルギアスの弟子ポロスの「重言法」「格言的話法」「譬喩的話法」 リキュムニオスの美文創作術 プロタゴラスの「正語法」 トラシュマコスの「俳優術」 その他に話の最後に「総括」(要約)を持ってくる手法 などを列挙し、こうした「予備的」な内容で以てその分野の技術を修得したと称しても、例えば医者・悲劇詩人・音楽家などであれば相手にされないと指摘する。 ソクラテスは自分が技術を身につけ、他人にも教授することを望むのなら、まずはその技術の対象が「単一」なのか「多種類」なのかを調べ、「多種類」であればそれを一つ一つ数え上げ、それら一つ一つの「機能・性質」(能動的作用・受動的作用)を調べ把握しなくてはならないと指摘する。そして弁論術であれば「魂」がその対象となるので、第1に「魂」が「単一」なのか「多種類」なのか、第2に「魂」の「機能・性質」(能動的作用・受動的作用)、第3に「話し方」の種類と「魂」の種類、それらの反応の分類整理と原因を論じることができてはじめて技術と呼ぶに値するものである(すなわち弁論術は技術と呼ぶに値しない)ことを指摘する。 ソクラテスは締め括りに架空のテイシアスに語りかける体裁で、「真実らしくみえるもの」は「真実」に似ているからこそ多数の者に真実らしく見えるのであり、その「真実」と他の類似を最も把握できるのはいつの場合も「真実」そのものを知っている者であること、そしてその「真実」の把握には対象の詳細な検討が必要であり並々ならぬ労苦を伴うこと、それを人間相手の説得という「小さな目的」のために行うよりは神々の御心にかなうように語れる・振る舞えるようになるという「大きな目的」のために行うべきであり、そうしていれば自ずと「小さな目的」も達成されるようになることなどを述べる。
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