記録例
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紀元前471年に、共和政に移行して間もないローマがウォルスキ人との戦いで不名誉な戦いをし、十分の一刑が行われたのが最初である。 スパルタクスの乱の最中の紀元前71年に、マルクス・リキニウス・クラッススがこの刑罰を復活させた。 ユリウス・カエサルもポンペイウスとの戦いで自らの第9軍団に対して十分の一刑を施行したと伝えられているが、証明はされてはいない(なぜなら、第9軍団どころかカエサル軍はかなりの少数で、もし執行した場合の戦力減少は危険すぎるからである)。ヒューマンドラマを演じることで第9軍団所属将兵の羞恥心(というよりローマ人の恥を重んじる文化)に訴えかけることで戦意向上を狙ったという見方もある。 紀元前20年に、ルキウス・アポロニウスが第3軍団アウグスタの一部に対して十分の一刑を施行。 紀元前17年に、アウグストゥスが十分の一刑を施行。
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記録例
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太田康資の伝説として、普通の男が30人かかって持ち上げる大石を1人で軽く持ち上げてみせた(『関東古戦録』巻六、『小田原北条記』巻五)。 戸村義国の伝説として、竜昌院寺内に、3、40貫(112 - 130キログラム超)の大石を置き、持ち上げたとされる。 浦和市(現さいたま市)白幡の医王寺境内にある力石の銘として、「唱武広観直性大法子 寛政5年(1793年)5月29日」と記されており、伝えによれば、75貫目(約280キログラム)あり、寛政期の白幡の若者に大力がいて、江戸の力士ですら持ち上げられなかったこの石を持ち上げたとされる。 加藤寛斎の『奥郡里間数記』に(文化・文政期=1809 - 29年とみられる)、江戸角力・待乳山部屋の三段目まで取った久米の森という角力がいて、出自は常陸国那珂郡額田村の常福寺の北二軒家だったが、10人や15人では持てない六尺角(180センチ四方)の大石を1人で運んだとされる。 安政6年(1859年)5月8日生まれの大和国北葛城郡二上村(現香芝市)在地力士・大の松為次郎は、身長5尺3寸(約160センチ)、体重20貫(74キログラム以上)であったが、米8斗5升(約154キログラム)と同じ重さの力石を気楽に持ち上げた、と記述されている。
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