計画の中止と現在
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/20 00:37 UTC 版)
利根川放水路の計画ルートは1946年、陸軍の消滅に伴い、布川狭窄部の上流から印旛沼西端を経由して、花見川を通るルートに変更された(計画高水量も1949年に3,000m³/sに変更)。戦前に船橋市等で着工された部分は放棄された。 しかしながら、事業化が見送られるうちに予定ルートの市街化が進行した。21世紀に入ると従来の計画通りに放水路を事業化した場合、移転戸数2,000戸、事業費2兆円が見込まれるようになり、事実上事業化が不可能な「幻の放水路」と呼ばれるようになった。 2005年11月、国土交通省は利根川治水計画を見直し、利根川放水路の分派地点を布川狭窄部の上流から下流の長門川へ、また計画高水量を3,000m³/sから1,000m³/sに変更した。不足する2,000m³/sについては、佐原における利根川本流の高水量を8,000m³/sから9,500m³/sに増加させ、洪水時の小貝川から利根川への流量を調節池によって500m³/sから0m³/sとすることで対応した。また、印旛沼を洪水調節池として活用することとした。 これにより、新規開削としての利根川放水路計画はなくなったが、現在の花見川は270m³/sの流量しかないため、治水計画の通りの流量を達成するためには花見川の拡幅が必要である。ただし、利根川治水計画を受けて2013年5月に公表された「利根川水系利根川・江戸川河川整備計画」には花見川の拡幅は含まれておらず、今後数十年間はこの区間の拡幅整備は行われない予定である。 インターネットで公開されている終戦直後の米軍空中写真には、戦前の船橋市花輪付近での掘削跡および京成電気鉄道の橋梁の橋脚土台が確認できる。また戦前、利根川放水路の工事の一環として掘削された場所の一部は現在、船橋高等学校の野球場となっている。
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