解散への軌跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 07:42 UTC 版)
「キャンディーズ」とは本来伊藤・田中・藤村のグループユニット名であるが、これに3人を支えた関係者、および全国のファンが一体となったムーブメントこそが「キャンディーズ」だったという見方もある。 メンバーの解散の意思を最初に伝えられたのは、当時のマネージャーであった大里洋吉であった。1977年4月9日、京都国際会館でのコンサート終了後の食事の席でのことだったという。大里は自身の渡辺プロ退社が既に決まっていたことと周囲に与える衝撃が大き過ぎるとの判断から、「今の話は俺の胸にしまっておくから、これからのことはおいおい話し合おう」と言ってその場を収めた。言葉通り、大里は渡辺プロを退社するまで他の誰にもメンバーが解散の意思を持っていることを知らせなかったという。 日比谷野外音楽堂の解散宣言直後、メンバーの3人は改めて記者会見に臨み、およそ9か月後の1978年4月4日に正式に解散することを決めた。当初はファン、関係者とも賛否が分かれたが、「キャンディーズの3人が解散を望んでいる以上、それを支持する」ことで意思統一が図られた。 後に、それは誰からともなく「最高の状態で解散する」ことへと気運が高まり(後述の穂口雄右の証言によれば、その5年も前からレッスンの場で「一番いい時に解散しようね」と誓いあっていたという)、そのためには今まで獲得していなかったオリコンチャート1位をとることが最終目標となった(それまでの最高位は「春一番」「わな」の3位)。このような状況下で、事実上のラスト・シングル「微笑がえし」の作詞を担当した阿木燿子は、キャンディーズの集大成となるように、それまでのA面タイトル(春一番、わな、やさしい悪魔、アン・ドゥ・トㇿワなど)を各歌詞の随所にちりばめていた。 作曲を担当した穂口雄右はレコーディングの際、「キャンディーズに敬意を表し、アイドルではなくミュージシャンとして処遇したい」と提案し、スタッフもこれに同意した。この穂口案は、「コーラスのパート譜を当日の、しかもレコーディングの時点で譜面台に用意する」、即ち初見でレコーディングを行うというものである。これほど厳しい条件にもかかわらず、譜面を手にした3人はミュージシャンとして難なくこれを歌いこなし、レコーディングは僅か3回のテイクで完了した。この一部始終を見ていた穂口は後年、以下のように懐古する。「あの(「微笑がえし」)コーラスは絶品であった。デビュー当時、音程を掴むのに苦労していた3人がここまで成長した。そこにいた3人はアイドルではなく、まさにプロのミュージシャンだった。あまりの嬉しさに私(穂口)は、涙を拭くことも忘れて3人のコーラスに聴き入った。ふと周囲を見ると、周りのスタッフも全員が泣いていた。 「微笑がえし」が発売されてからは、主に全キャン連がこのラスト・シングルを1位にしようとラジオ番組で広報につとめたり、一部の地域では1人2枚以上の購入を呼びかける動きもあった。このように一部に「内輪受け」の要素があったのは事実だが、それを差し引いても「微笑がえし」は春の別れと旅立ちをイメージした曲であり、一般層をも巻き込んで解散直前の1978年3月12日、ついに念願のオリコンチャート1位を獲得した。 ラスト・シングルでキャンディーズ自身最初で最後の1位を飾り、文字通り最高の状態で解散を迎えることが出来たのは、メンバーの3人に起因するところのみならず、前述の通り解散宣言からラスト・シングルまで、関係者やファンまで全てが一体となって、即ち全てが「キャンディーズ」なる現象と化したため、との一考がある。
※この「解散への軌跡」の解説は、「キャンディーズ」の解説の一部です。
「解散への軌跡」を含む「キャンディーズ」の記事については、「キャンディーズ」の概要を参照ください。
- 解散への軌跡のページへのリンク