複線開通
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 15:37 UTC 版)
「関門トンネル (山陽本線)」の記事における「複線開通」の解説
工事の末期となると、1943年(昭和18年)7月前後から労務供給事情が悪化し、勤労報国隊の出動を仰いで掘削の継続を何とか維持した。しかし、さらに労働力の事情は厳しさを増し、1944年(昭和19年)4月になると学生報国隊の増援まで仰ぐようになった。こうした懸命の努力により、覆工と漏水防止処置を完了し、6月15日にはレールの締結を完了した。7月に電気関連の工事を完了させた。 こうして1944年(昭和19年)8月8日についに上り線トンネルが開通となった。星野所長は本省に対し、「次男坊生レタリ、長男坊ヨリ出来ガヨシ」と打電した。新聞では「決戦輸送の巨歩 関門隧道晴れの竣工式」「鉄道も兵器だ 勝抜け決戦輸送」などと報じ、当時の戦局を反映したものとなっている。 下り線トンネルはこの際に改修工事を行うことになり、すべての列車の運転を上り線トンネルに移しておよそ1か月にわたって下り線の運転を休止して作業を行った。漏水が相当多かったため再度注入を行って漏水防止を図り、当初テルミット溶接したレールは、たびたび溶接個所が破断し摩耗も激しかったため、25メートルの通常レールに取り換えた。架線も複架線式に改良し、軌道回路の電流漏洩が激しく確実な信号動作ができなくなっていたことから、1つの軌道回路の長さを短縮する改造を行った。こうした修理工事を終えて、9月9日に複線での運転が開始された。 上り線トンネルの決算額は約1,961万円であった。工事期間中、上下線を合わせて20名の殉職者が出た。
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