虎繁の子孫とは? わかりやすく解説

虎繁の子孫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 06:38 UTC 版)

秋山虎繁」の記事における「虎繁の子孫」の解説

金丸筑前守の子秋山昌詮は虎繁の養子となるが天正7年1579年7月23日病死し筑前守の七男・源三郎(吉千代)が昌詮の遺言により秋山氏継承する。「秋山家文書によれば源三郎伊那郡国衆下条兵庫助の娘と婚姻した上で秋山氏継承しており、兵庫助に虎繁の娘が嫁いでいたとも考えられている。源三郎天正10年1582年3月11日織田徳川連合軍武田侵攻に際して、勝頼に従い戦死している。 『寛永諸家系図伝によれば源三郎には三歳男子がおり、母方の縁を頼り伊豆大平土屋氏のもとへ落ち延びたとする伝承記している。さらに、この男子与兵衛名乗り伊豆国君沢郡安久土着し、寛永13年1636年)に死去したという。 一方秋山氏家伝文書伝えた子孫とされる家に秋山平太夫家があり、譜代大名水野氏仕えている。同家には「秋山家文書」(山形大学附属博物館寄託)が伝わっているが、系図では昌詮・源三郎記述がないことが指摘される。 「秋山家文書」に含まれる宝永6年1704年)の先祖書や『甲斐国志』に拠れば伯耆守(虎繁)の子孫に秋山民部右衛門(『甲斐国志』では式部右衛門尉)がおり、民部右衛門の孫・秋山平太夫が家伝文書水野家仕えたとしている。民部右衛門に関して世代観点から虎繁の父もしくは兄弟と見る説もある。また、新編会津風土記』には天正8年1580年)の史料見られる秋山式部右衛門尉」の存在記しており、民部右衛門とは別人もしくは子息であると考えられている。 おつやの方との間に生まれた太夫は、織田氏による岩村城落城前に落ち延びて、瀬戸内海村上水軍仕えていたが、慶長5年(1600年)に伊予国松山三津浜三津浜夜襲)で討死したという。墓は、広島県竹原市にある。戒名は、一朝入信士。現在も六太夫の子孫を名乗る人物が居る。 また、生来病弱にして殆ど戦場出ず、虎繁が岩村赴いた後に高遠城退去し長岡村長照寺移った太郎光近の子で虎繁孫に当たるとされる左衛門尉信吉は、寛永9年1633年旧領甲斐国稲積庄より信濃国諏訪郡有賀郷に移住改姓して農に著き邑事を司ったとされる正保3年1646年)没。戒名は大源院正岳永山居士。現在も信吉の子孫が住んでいる。

※この「虎繁の子孫」の解説は、「秋山虎繁」の解説の一部です。
「虎繁の子孫」を含む「秋山虎繁」の記事については、「秋山虎繁」の概要を参照ください。

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