虎繁の子孫
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金丸筑前守の子・秋山昌詮は虎繁の養子となるが天正7年(1579年)7月23日に病死し、筑前守の七男・源三郎(吉千代)が昌詮の遺言により秋山氏を継承する。「秋山家文書」によれば、源三郎は伊那郡の国衆・下条兵庫助の娘と婚姻した上で秋山氏を継承しており、兵庫助に虎繁の娘が嫁いでいたとも考えられている。源三郎は天正10年(1582年)3月11日に織田・徳川連合軍の武田領侵攻に際して、勝頼に従い戦死している。 『寛永諸家系図伝』によれば、源三郎には三歳の男子がおり、母方の縁を頼り伊豆大平の土屋氏のもとへ落ち延びたとする伝承を記している。さらに、この男子は与兵衛を名乗り、伊豆国君沢郡安久村へ土着し、寛永13年(1636年)に死去したという。 一方、秋山氏の家伝文書を伝えた子孫家とされる家に秋山平太夫家があり、譜代大名・水野氏に仕えている。同家には「秋山家文書」(山形大学附属博物館寄託)が伝わっているが、系図では昌詮・源三郎の記述がないことが指摘される。 「秋山家文書」に含まれる宝永6年(1704年)の先祖書や『甲斐国志』に拠れば、伯耆守(虎繁)の子孫に秋山民部右衛門(『甲斐国志』では式部右衛門尉)がおり、民部右衛門の孫・秋山平太夫が家伝文書を水野家に仕えたとしている。民部右衛門に関しては世代的観点から虎繁の父もしくは兄弟と見る説もある。また、『新編会津風土記』には天正8年(1580年)の史料に見られる「秋山式部右衛門尉」の存在を記しており、民部右衛門とは別人もしくは子息であると考えられている。 おつやの方との間に生まれた六太夫は、織田氏による岩村城落城前に落ち延びて、瀬戸内海の村上水軍に仕えていたが、慶長5年(1600年)に伊予国松山の三津浜(三津浜夜襲)で討死したという。墓は、広島県の竹原市にある。戒名は、一朝智入信士。現在も六太夫の子孫を名乗る人物が居る。 また、生来病弱にして殆ど戦場に出ず、虎繁が岩村へ赴いた後に高遠城を退去し長岡村長照寺に移った太郎光近の子で虎繁孫に当たるとされる九左衛門尉信吉は、寛永9年(1633年)旧領甲斐国稲積庄より信濃国諏訪郡有賀郷に移住、改姓して農に著き邑事を司ったとされる。正保3年(1646年)没。戒名は大源院正岳永山居士。現在も信吉の子孫が住んでいる。
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