虎綱の子孫と『甲陽軍鑑』とは? わかりやすく解説

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虎綱の子孫と『甲陽軍鑑』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 15:33 UTC 版)

春日虎綱」の記事における「虎綱の子孫と『甲陽軍鑑』」の解説

春日氏次男信達継承し海津城代も務めるが、天正10年1582年3月武田氏滅亡後森長可支配を受ける。同年6月本能寺の変後信達美濃撤退する森長可妨害し越後の上景勝属したが、7月13日北信での自立画策する武田遺臣真田昌幸北条氏直らと内通したことが発覚し激怒した上杉景勝によって誅殺され、これにより高坂嫡流滅亡した。さらに慶長5年1600年3月初代川中島藩主として北信濃入った森長可の弟の森忠政によって信濃残っていた信達一族は残らず探し出され18年前に森長可信濃撤退妨害した罪で一族全員磔刑処された(森家先代実録)。 近世には甲府町年寄山本右衛門春日昌預1751年3月17日寛延4年) - 1836年天保7年))は甲府城下の大店若松屋を営む加藤家出自で、加藤家は虎綱の子孫を称している。 虎綱の活躍をはじめ信玄・勝頼期の事績記している『甲陽軍鑑』は江戸時代元和年間成立した軍学書で、『軍鑑』自身奥書によれば原本は虎綱の口述記録で、長篠合戦の後に武田氏行く末危惧した虎綱が勝頼や重臣跡部勝資長坂光堅らに対する「諫言の書」として記したという。 虎綱の死後も甥の惣次郎家臣大蔵十郎執筆継続し、虎綱の海津城時代部下である小幡昌盛の子小幡景憲がこれを入手し完成させたという。 高坂節三(経済同友会幹事)によると、「高坂家先祖甲斐武田信玄仕えた武将高坂弾正忠昌信といわれ、兄(高坂正堯)は自分戦国武将末裔であることを非常に誇り思っていた」という。高坂正堯自身長男を「昌信」と名付けている。

※この「虎綱の子孫と『甲陽軍鑑』」の解説は、「春日虎綱」の解説の一部です。
「虎綱の子孫と『甲陽軍鑑』」を含む「春日虎綱」の記事については、「春日虎綱」の概要を参照ください。

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