虎綱の子孫と『甲陽軍鑑』
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「春日虎綱」の記事における「虎綱の子孫と『甲陽軍鑑』」の解説
春日氏は次男の信達が継承し海津城代も務めるが、天正10年(1582年)3月の武田氏滅亡後は森長可の支配を受ける。同年6月の本能寺の変後、信達は美濃に撤退する森長可を妨害し、越後の上杉景勝に属したが、7月13日、北信での自立を画策する武田遺臣の真田昌幸や北条氏直らと内通したことが発覚し、激怒した上杉景勝によって誅殺され、これにより高坂氏嫡流は滅亡した。さらに慶長5年(1600年)3月、初代川中島藩主として北信濃に入った森長可の弟の森忠政によって信濃に残っていた信達の一族は残らず探し出され18年前に森長可の信濃撤退を妨害した罪で一族全員が磔刑に処された(森家先代実録)。 近世には甲府町年寄の山本金右衛門(春日昌預、1751年3月17日(寛延4年) - 1836年(天保7年))は甲府城下の大店若松屋を営む加藤家の出自で、加藤家は虎綱の子孫を称している。 虎綱の活躍をはじめ信玄・勝頼期の事績を記している『甲陽軍鑑』は江戸時代の元和年間に成立した軍学書で、『軍鑑』自身の奥書によれば原本は虎綱の口述記録で、長篠合戦の後に武田氏の行く末を危惧した虎綱が勝頼や重臣の跡部勝資・長坂光堅らに対する「諫言の書」として記したという。 虎綱の死後も甥の惣次郎と家臣大蔵彦十郎が執筆を継続し、虎綱の海津城代時代の部下である小幡昌盛の子の小幡景憲がこれを入手し、完成させたという。 高坂節三(経済同友会幹事)によると、「高坂家の先祖は甲斐の武田信玄に仕えた武将・高坂弾正忠昌信といわれ、兄(高坂正堯)は自分が戦国武将の末裔であることを非常に誇りに思っていた」という。高坂正堯は自身の長男を「昌信」と名付けている。
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