蒐集品について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 20:00 UTC 版)
潤治は戦時中に、文部省からの勧めで膨大な量の蒐集品を東京から新潟の高田へ疎開させているが、その際は陸軍省と交渉して輸送に必要な貨車を3両借りたほどであったという。蒐集分野も幅広く、古文書は中世文書のみならず江戸時代から明治維新までの武士・僧・政治家や学者の文書記録類を、美術品は甲冑・刀剣・什器も数えきれないほど集めていたが、特に中世歌人の短冊や色紙の所蔵点数はいずれの博物館よりも多く、日本第一であったとされる。本因坊算砂が織田信長から拝領したと伝わる「浮木の碁盤」も、一時期潤治の所有下にあった。 上述の通り、彼の蒐集品は戦後に散逸してしまい、かつ目録も作成されていなかったためにその全容を知ることは不可能だが、1979年(昭和54年)時点で新潟県内に留まっていた潤治の旧蔵品は2,000点に上ることが指摘されている。また、潤治が購入した美術品や古典籍は史料編纂所に持ち込まれて写真撮影されることがあり、それらは『大日本史料』・『大日本古文書』や『越佐史料』などに掲載されているほか、現在の東京大学史料編纂所は影写本『保阪潤治氏所蔵文書』7冊と、所有者名が保阪潤治である史料の台紙付写真308点(個人別では最多)を所蔵している。 潤治旧蔵の古典籍は、彼の人格や慎重な姿勢、鑑識の高さも含めて古書業者や蒐集家の間で高く評価され、「間違いのない物」という安心感から2、3割高い価格で取引されることがしばしばあり、その多くには彼の顧問であった三上参次や辻善之助による解説や礼状、史料編纂所の借覧礼状が添っているといわれる。
※この「蒐集品について」の解説は、「保阪潤治」の解説の一部です。
「蒐集品について」を含む「保阪潤治」の記事については、「保阪潤治」の概要を参照ください。
- 蒐集品についてのページへのリンク