蒋孝武とは? わかりやすく解説

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蔣孝武

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/04 12:21 UTC 版)

蔣 孝武
1950年撮影
生年月日 1945年4月25日
出生地 中華民国 重慶市
没年月日 (1991-07-01) 1991年7月1日(46歳没)
死没地 中華民国 台北市北投区
台北栄民総医院
出身校 陸軍軍官学校
ミュンヘン政治学院ドイツ語版
中国文化学院中美関係研究所法学碩士
所属政党 中国国民党
親族 蔣介石(祖父)
蔣経国(父)

在任期間 1990年1月9日 - 1991年5月31日
総統 李登輝

中華民国
第3代 駐シンガポール商務代表団中国語版代表
在任期間 1988年8月8日 - 1990年1月9日
総統 李登輝
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蔣 孝武
職業: 政治家
籍貫地 浙江省奉化県
各種表記
繁体字 蔣 孝武
簡体字 蒋 孝武
拼音 Jiǎng Xiàowǔ
ラテン字 Chiang Hsiao-wu
和名表記: しょう こうぶ
発音転記: チアン シャオウー
英語名 Alex Chiang
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蔣 孝武(しょう こうぶ、1945年民国34年〉4月25日 - 1991年〈民国80年〉7月1日)は、中華民国政治家蔣経国(第3代総統)・蔣方良夫妻の次男である。愛理[1]

生涯

蔣介石ダイヤモンドゲームに興じる蔣孝武

日中戦争末期の1945年(民国34年)4月25日国民政府陪都の重慶にて生まれる[2]。他の兄弟ほどの寵愛を受けることはなかったが、それでも蔣家の一員として丁重に扱われながら育った[3]

国共内戦末期の1949年(民国38年)、家族と共に上海から台湾へ移住した。蔣孝武は自身が蔣家の一員であることに強く慢心しており、熱心に勉強に取り組むこともなく常に揉め事を起こし続け、中学を卒業する頃にはクラスで最下位の成績となっていた。この状況を見かねた祖父の蔣介石は、蔣孝武を高雄県鳳山陸軍軍官学校に入学させることにした。

しかし、軍官学校に入学しても蔣孝武の素行は改善しなかった。教官に規律違反を注意されても却って蔣孝武が教官を叱責する有様であり、次第に誰も蔣孝武を咎めなくなっていった。彼は毎日自分の起きたい時間まで寝続け、食事の時も列に並ばずに自分の好きな料理を注文しし、コックに調理してもらっていた。さらに、いつでも学校を出て高雄台北まで遊びに行くことさえできた。この状況を知った家族は、蔣孝武を蔣家の威光が及ばない海外へ留学させることにした。

1967年(民国56年)、蔣孝武は西ドイツミュンヘン政治学院ドイツ語版に留学し、留学中の休暇で訪れたスイスジュネーヴにて、国際電気通信連合に勤務してい汪徳官の娘である汪長詩と知り合った。1968年(民国57年)、蔣孝武と汪長詩はアメリカにて結婚式を挙げた。1970年(民国59年)には台湾に帰国し、1972年(民国61年)1月19日に長女の蔣友蘭が、1973年(民国62年)7月23日には長男の蔣友松中国語版が生まれた。1975年(民国64年)、蔣孝武と汪長詩は離婚した[3][4]

1975年6月27日国軍退除役官兵輔導委員会管轄下の国営企業として栄電股份有限公司中国語版が設立され、初代董事長に就任した。その後も1976年(民国65年)には中央広播電台主任、1977年(民国66年)には中華民国広播電視事業協会理事長・中国国民党中央党務顧問・国民党新聞党部常務委員、1980年(民国69年)には中国広播公司総経理と、党や国の様々な職を歴任した[3]

1977年、蔣友蘭の家庭教師となった台湾人蔡恵媚中国語版と知り合い、やがて交際関係に発展した[3]

1984年(民国73年)10月15日、アメリカカリフォルニア州在住の作家である江南(本名:劉宜良中国語版)が自宅で暗殺される「江南事件中国語版」が発生した。FBIの捜査の結果、事件は台湾に拠点を置く暴力団竹聯幇」のメンバーによる犯行と判明し、国防部情報局が犯行を指示したとされ、局長の汪希苓中国語版が逮捕された。この頃、蔣孝武は台湾の情報機構で大きな権力を持っており、竹聯幇の張安楽が「首謀者は蔣孝武だ」と主張したため、蔣孝武に対する疑惑が深まった[注 1]。この疑惑の影響で蔣孝武は失脚し、駐シンガポール商務代表団中国語版副代表に任命されて国外に追いやられた[3][7][8]

1986年(民国75年)、シンガポールにて蔡恵媚と再婚した[3]

1988年(民国77年)8月8日、駐シンガポール商務代表団代表に昇格した[9]

高松宮夫妻を訪問する蔣孝武(右端)

1989年(民国78年)に李登輝総統のシンガポール訪問を実現させた功績を評価され、1990年(民国79年)1月9日亜東関係協会東京弁事処代表(駐日代表)に異動した[10][11]

2月、李登輝は総統選挙の副総統候補に総統府秘書長中国語版李元簇を指名した。これに反対した滕傑ら一部の国民大会代表は林洋港(総統候補)・蔣緯国(副総統候補)の擁立を計画した。3月9日、蔣孝武は台湾に帰国して「中国国民党の指導者たちに宛てる手紙」と題する文書を発表した。蔣孝武は同文書にて国民大会および国民党の姿勢を強く批判し、国民大会代表の改選を求めた。また、記者会見では、叔父にあたる蔣緯国の副総統立候補を「権力や地位を奪い合い、互いに譲らず、党の理想を無視している」と強く批判した[10][3][12]

11月12日東京皇居で挙行された天皇明仁(現:上皇)の即位礼正殿の儀に出席した[13]

1991年(民国80年)5月31日、駐日代表を辞任して帰国した。6月30日中華電視董事長への就任が決定したものの、その夜に長年にわたる糖尿病と高脂血症の影響で体調を崩し、翌7月1日未明に46歳の若さで急死した。死因は「急性心不全」と発表された。7月31日に葬儀が挙行され、李登輝(総統)・李元簇(副総統)・郝柏村行政院長)などの要人が参列した。蔣家の他の人々と違って蔣孝武は仏教に改宗していたため、葬儀は仏式であった[3][10][14][15][16]

家系図

 
 
蔣肇聡
 
王采玉
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
蔣介卿
 
蔣介石
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
毛福梅
 
 
姚冶誠
 
 
陳潔如
 
 
宋美齢
 
 
 
 
 
戴季陶
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
蔣方良
 
蔣経国
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
章亜若
 
蔣緯国
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
蔣孝文中国語版
 
蔣孝章中国語版
 
蔣孝武
 
蔣孝勇
 
方智怡中国語版
 
章孝慈中国語版
 
蔣孝厳
 
黄美倫
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
林姮怡中国語版
 
蔣友柏 蔣友常中国語版 蔣友青中国語版
 
 
 
 
 
蔣蕙蘭中国語版 蔣蕙筠 蔣万安
 

脚注

注釈

  1. ^ なお、2013年(民国102年)に張安楽は、この主張は根拠のない憶測に基づいたものであったと証言している[5][6]

出典

  1. ^ 「孝武,字愛理,經國次子,民國三十四年乙酉三月十四日辰時生」,《武嶺蔣氏族譜》
  2. ^ 周美華、蕭李居編 (2009) (中国語). 蔣經國書信集——與宋美齡往來函電 (上). 台北: 國史館. p. 40. ISBN 9789860195903 
  3. ^ a b c d e f g h 鄭佩芬、李珮雲 (2020年3月29日). “江南案轟動一時 斷送蔣孝武接班夢” (中国語). 中國時報. 2025年3月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年3月4日閲覧。
  4. ^ 陳布雷 等 編著 (1978) (中国語). 蔣介石先生年表. 台北: 傳記文學出版社. p. 127 
  5. ^ ““回台湾就是为了一国两制和平统一”” (中国語). 晶报. (2013年7月16日). オリジナルの2014年1月6日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140106152752/http://jb.sznews.com/html/2013-07/16/content_2551840.htm 2014年1月6日閲覧。 
  6. ^ 新台湾加油” (中国語). 三立電視台 (2013年7月2日). 2021年3月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年1月6日閲覧。
  7. ^ 若林正丈 (2020年8月9日). “私の台湾研究人生:香港からペンネームで「江南暗殺事件」を書く”. nippon.com. 2025年3月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年3月4日閲覧。
  8. ^ 陳啟禮三人赴美殺江南” (中国語). 文匯報 (2007年10月6日). 2007年10月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年10月6日閲覧。
  9. ^ “今天果然是大吉日 蒋孝武升官” (中国語). 联合晚报 (新加坡). (1988年8月8日). オリジナルの2024年4月30日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20240430060006/https://eresources.nlb.gov.sg/newspapers/digitised/article/lhwb19880808-1.2.5.17 2024年4月30日閲覧。 
  10. ^ a b c 關於 蔣孝武 先生的事跡” (中国語). 台灣研究網路化. 中央研究院. 2025年3月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年3月4日閲覧。
  11. ^ “蒋孝武出任台湾驻日代表”. 联合早报 (新加坡): p. 2. (1990年1月10日). https://eresources.nlb.gov.sg/newspapers/digitised/issue/lhzb19900110-1 2024年4月30日閲覧。 
  12. ^ 陳敏鳳. “蔣孝武砲轟蔣二叔” (中国語). 新新聞週刊 第157期 
  13. ^ 德仁天皇即位大典 謝長廷代表我國出席” (中国語). 自由時報 (2019年10月22日). 2025年3月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年3月4日閲覧。
  14. ^ “原订昨日接任华视董事长 蒋孝武突然去世” (中国語). 联合早报 (新加坡). (1991年7月2日). オリジナルの2024年6月9日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20240609082012/https://eresources.nlb.gov.sg/newspapers/digitised/article/lhzb19910702-1.2.40.3 2024年6月9日閲覧。 
  15. ^ 張樹德 (2008) (中国語). 蒋氏家族第三代生活纪实. 團結出版社. p. 107. ISBN 9787802144835. https://www.google.com.tw/books/edition/%E8%92%8B%E6%B0%8F%E5%AE%B6%E6%97%8F%E7%AC%AC%E4%B8%89%E4%BB%A3%E7%94%9F%E6%B4%BB%E7%BA%AA%E5%AE%9E/d3QNAQAAMAAJ?hl=en 
  16. ^ 陶涵 (2000) (中国語). 台灣現代化的推手——蔣經國傳. 台北: 時報文化出版企業股份有限公司. ISBN 9789571332376 

関連項目




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