芸人としての飴売り
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唐人飴売りに限らず、江戸における飴売りは様々な仮装やパフォーマンスで客の目を引きつけた。その光景は浄瑠璃や芝居などで再現され、それが飴売りの人気をさらに向上させた。例えば文化年間(1804年 - 1818年)から天保年間(1830年 - 1844年)に女装をし女の声色で客寄せをした「おまんが飴」と呼ばれる飴売りが評判になり、浄瑠璃外題『花翫暦色所八景』で4代目中村歌右衛門が演じた。文久年間(1861年 - 1863年)には日本橋で、鉦を叩くからくり人形を傍らに、三味線を鳴らし鎌倉節を唄う飴売りは、「飴売渦松」として5代目尾上菊五郎(当時は13代目市村羽左衛門)が演じた。前述した半七捕物帖の中での会話に出てくる、「和国橋の髪結い藤次の芝居に出る唐人市兵衛」も文久3年(1863年)に市村座で4代目市川小團次が演じた『三題噺高座新作』に出てくる主人公、髪結藤次の女房おむつの父親である唐人飴売りである。なお、この芝居は元は小團次と親交があった河竹黙阿弥が三題噺で作成したものである。 唐人飴売りの口上は、『近世商買尽狂歌合』や『有喜世物真似舊觀帖』に記されている。 唐のナァ唐人のネ言には「アンナンコンナン、おんなかたいしか、はへらくりうたい、こまつはかんけのナァ、スラスンヘン、スヘランシヨ、妙のうちよに、みせはつじよう、チウシヤカヨカパニ、チンカラモ、チンカラモウソ チンカラモウソ、かわようそこじやいナァ、パアパアパアパア コリヤ~~来たハいなこれハ九州長崎の丸山名物ヂヤガラカ糖お子さまがたのお目ざましおぢいさんおばァさんにあげられて第一寿命が長くなるお若いかたにあげられていろの取れるがきんミやうじやおや~~どうせうおやどうしやう辛いあまいのチヤカラカ糖パァ~~ 長崎丸山には唐人屋敷があり、ここでも舶来由来が謳われている。この飴売りの口上は飴売りの間ではある程度共通だったものらしく、時代は下って大正2年(1913年)に竹久夢二が小唄集、『どんたく』の中に『有喜世物真似舊觀帖』にそっくりの唄を記している。 まちの角では早起きの飴屋の太鼓がなつてゐる「あアこりやこりやきたわいな」これは九州長崎の丸山名物ぢやがら糖お子様がたのお眼ざまし甘くて辛くて酸つぱくてきんぎよくれんのかくれんぼ おつぺけぽうのきんらいらい
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