舎訓とは? わかりやすく解説

舎訓

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/10 00:30 UTC 版)

学校法人二松學舍」の記事における「舎訓」の解説

二松學舍にある『育英』の精神は、明治維新最中西洋文化摂取汲々としていた当時日本時節憂えた三島が、東洋文化を学ぶことこそが日本本来の姿知りえるとして、『己ヲ修メ人ヲ治メ一世有用ナル人物養成スル』ことで東洋学確立新時代を担う国家有為人材の育成目指したことにある。 夏目金之助在籍当時の様子 当時の様子について夏目漱石は『落第』にて、「三島中洲先生二松學舍転じたのであるが、其時分此処に居て知られて居る人は京都大学田島錦治井上密などで、この間戦争露西亜捕虜になって行った内務省小城なども居ったと思う。学舎如きは実に不完全なもので、講堂などの汚なさと来たら今の人には迚も想像出来ない程だった。真黒になった腸の出た畳が敷いてあってなどは更にない。其処順序もなく坐り込んで講義聞くであったが、輪講の時などは恰度カルタでも取る様な工合してやったのである輪講順番定めるには、竹筒の中へ細長い入って居るのを振って生徒は其中から一本抜いてそれに書いてある番号定めたのであるが、其番号は単に一二三とは書いてなくて、一東、二冬、三江、四支、五微、六、七虞、八斉、九佳、十灰と云った様に何処迄も漢学であった中には一、二、三の数字抜いて唯東、冬、江と韻許り書いてあるのもあって、虞を取れば七番、微を取れば五番ということ直に分るのだから、それで定めるのもあった。講義は朝の六時七時頃から始めるので、往昔寺子屋を其儘、学校らしい処などはちっともなかったが、其頃は又寄宿料等も極めて廉く――僕は家から通って居たけれど――慥か一カ月円位だったと覚えて居る。元来僕は漢学が好で随分興味有って漢籍は沢山読んだのである今は英文学などをやって居るが、其頃は英語と来たら大嫌い手に取るのも厭な様な気がした。」と述べている。 夏目漱石三島中洲弟子であり後に二松學舍校長となる山田済斎同年1867年生まれで、ともに二松學舍三島学んでいる。第五高等学校で済斎は漢文主任漱石英語科主任となった

※この「舎訓」の解説は、「学校法人二松學舍」の解説の一部です。
「舎訓」を含む「学校法人二松學舍」の記事については、「学校法人二松學舍」の概要を参照ください。

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