聖エルモ砦の陥落とは? わかりやすく解説

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聖エルモ砦の陥落

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 03:10 UTC 版)

マルタ包囲戦 (1565年)」の記事における「聖エルモ砦の陥落」の解説

マルタ騎士団との小競り合い制しつつ、オスマン軍グランド・ハーバーに陸側から接近、シベラス半島進んでまず聖エルモ砦攻略取り掛かった聖エルモ砦には騎士100人と兵士500人が守備隊として配置されシチリア副王ガルシア約束した救援隊到着するまで、オスマン側の攻撃遅滞させるべく死守する構え見せていた。対すオスマン側はシベラス半島丘陵地36箇所砲台据え猛烈な砲撃加えた。約一週間聖エルモ砦瓦礫見紛うばかりに破壊された。マルタ騎士団側も夜ごと湾を横断して聖エルモ砦物資補給行ったが、やがてオスマン側の妨害にあって中断せざるを得なかった。飢え疲労からオスマン軍への逃亡見られ始めた6月8日には、守備隊より「砦内部反乱瀬戸際にあり、手にした剣で死ぬために反乱分子処分」を総長希望してきた。この希望許可され逃亡恐れがある者はいなくなった。砦の形勢吟味するため、4隻のガレーで港から遠望した。騎士団員大将帥と異な意見伝達すると、大将帥は、もし騎士兵士死守命令実行恐れるならば交代要員を送ると言った守備隊猛攻撃反撃しながら持ちこたえた。トゥルグトは港への往来妨害させ、6月23日、ついにオスマン側は聖エルモ砦奪った騎士以外の守備隊員をほぼ皆殺しにし、幾らか人間を砦から海へ捨てた少数海中へと飛び込んだ溺死した。しかしオスマン側も、トゥルグト自身が砦攻略準備中砲撃によって受けた耳の傷が元で戦死、彼は6月17日重傷負っていた。聖エルモ砦奪取したとはいえ聖エルモ砦襲撃で約4,000人(オスマン側の記録無く実態不明)のオスマン兵が負傷戦死したと言われる。その多くアフリカであった多く損失出しつつも、ムスタファ攻略諦め意図持っていなかった。 ピアリ・パシャは死亡したトゥルグトの後継に、トゥルグトの部下イタリア生まれ解放奴隷、ウルッチ・アリ・レイスを指名した(後に彼はレパントの海戦にも参加する)。

※この「聖エルモ砦の陥落」の解説は、「マルタ包囲戦 (1565年)」の解説の一部です。
「聖エルモ砦の陥落」を含む「マルタ包囲戦 (1565年)」の記事については、「マルタ包囲戦 (1565年)」の概要を参照ください。

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