美瑛・上富良野との出合い
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「前田真三」の記事における「美瑛・上富良野との出合い」の解説
前田真三が写真活動を始めた当初は、美瑛について全く知らなかった。東京都港区北青山に株式会社丹渓を設立してから4年後の1971年(昭和46年)3月に、自動車による単独での日本縦断撮影旅行を思い立ち、同年4月1日、九州最南端の佐多岬を出発した。それから3ヶ月間、写真撮影をしながら北上を続け、同年7月8日に北海道の宗谷岬に達したが、その行程上でも美瑛を通過することはなかった。 宗谷岬からの帰途、知人の紹介で、旭川市在住の写真好きの人の家に立ち寄り、大雪山や旭川付近が撮影された写真を見せてもらった。その中の一枚に、「傾斜した畑を農耕馬が土煙を上げて驀進してくるモノクロームの写真」があった。前田真三はその写真の背景に写っている落葉松の丘が妙に心に残り、撮影場所を問うと、「美馬牛峠付近」とのことだったので、それから数日後にその場所へ行ってみることにした。そして同年7月12日の昼下がり、前田真三はその美馬牛峠に差し掛かった。美馬牛峠とは国道237号にあり、美瑛町と上富良野町津郷との境界にある峠である。この時前田真三は、初めて美瑛の丘の風景を目にした。丘を彩る一面のジャガイモの花、遠くには噴煙を上げる十勝岳、そして丘の上に整然と並んだ落葉松の風景を目の当たりにすると、これらがヨーロッパの田園風景を思わせた。これらの丘の風景に、これまで自身が抱いてきた日本の風景とは異なる新しい風景を発見し、日本にもこんな所があったのか、と心打たれた。早速この風景を撮影しようと三脚を立て、カメラを構えたところ、そこを通りかかって偶然その様子を見た津郷在住のある人から怒鳴られた。その当時、この津郷にゴルフ場をつくるという話があり、その人はそれに反対していた。このことから、前田真三の様子をゴルフ場建設のための測量をしているものと勘違いしたのであった。風景写真を撮らせてもらっている旨を説明すると、その人は拍子抜けした様子で、お茶でも飲んで行きなさいと前田真三を家に招じ入れた。この人は上富良野町の教育委員も務めていたことから、前田真三の写真活動をよく理解し、以来、この人からの支援もあって、前田真三は美瑛、上富良野の丘陵地帯の撮影に足繁く通うこととなった。 この地区が、前田が心奪われたような風景になったのは、太平洋戦争後に陸軍第七師団の演習場が農地に転用されて復員軍人らが開拓し、農業機械の導入で丘の稜線が見えるようになったためで、ちょうど前田が通りかかる少し前の時期からであった。
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