美濃国盗り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 08:12 UTC 版)
天文10年(1541年)、利政による土岐頼満(頼芸の弟)の毒殺が契機となって、頼芸と利政との対立抗争が開始した。一時は利政が窮地に立たされたりもしたが、天文11年(1542年)に利政は頼芸の居城大桑城を攻め、頼芸を尾張へ追放して、事実上の美濃国主となったとされている。こういった行いから落首が作成され、それは「主をきり 婿を殺すは身のおはり 昔はおさだ今は山城(主君や婿を殺すような荒業は身の破滅を招く。昔で言えば尾張の長田忠致、今なら美濃の斎藤山城守利政であろう)」というものであった。 しかし、織田信秀の後援を得た頼芸は、先に追放され朝倉孝景の庇護を受けていた頼純(これ以前にその父政頼は死去していたと推定される)と連携を結ぶと、両者は土岐氏の美濃復辟を名分として朝倉氏と織田氏の援助を得て美濃へ侵攻した。その結果、頼芸は揖斐北方城に入り、頼純(あるいは政頼も生存し行動をともにしていたかもしれない)は革手城に復帰した。 天文15年(1546年)、もしくは天文16年(1547年)5月21日に道三が出した書状には、陣中見舞いとして枝柿五十とともに抹茶を贈られていることが確認でき、道三が実際に茶の湯を嗜み、陣中においても余暇を利用して茶事に興じていたことが窺える。 天文16年(1547年)9月には織田信秀が大規模な稲葉山城攻めを仕掛けたが、利政は籠城戦で織田軍を壊滅寸前にまで追い込んだ(加納口の戦い、ただし時期には異説あり)。一方、頼純も同年11月に急死した。この情勢下において、利政は織田信秀と和睦し、天文17年(1548年)に娘の帰蝶を信秀の嫡子織田信長に嫁がせた。 帰蝶を信長に嫁がせた後の正徳寺(現在の愛知県一宮市冨田)で会見した際、「うつけ者」と評されていた信長が、多数の鉄砲を護衛に装備させ正装で訪れたことに大変驚き、斎藤利政は信長を見込むと同時に、家臣の猪子兵助に対して「我が子たちはあのうつけ(信長)の門前に馬をつなぐよう(家来)になる」と述べたと『信長公記』にある。 この和睦により、織田家の後援を受けて利政に反逆していた相羽城主長屋景興や揖斐城主揖斐光親らを滅ぼし、さらに揖斐北方城に留まっていた頼芸を天文21年(1552年)に再び尾張へ追放し、美濃を完全に平定した。
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