美濃国攻防戦と敗走
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 06:55 UTC 版)
龍興は信長の侵攻に対処するため、父・義龍の進攻対象であった北近江の浅井長政と同盟を結ぼうとした。しかし信長に機先を制され、長政は信長と同盟を結び、逆に美濃に侵攻するようになる。この時は義龍の時代から同盟を結んでいた六角義賢が浅井領に侵攻したため、長政は美濃攻めを中止して撤退している。 永禄6年(1563年)、再度侵攻した織田信長と新加納で戦い、家臣の竹中重治の活躍もあって織田軍を破った(新加納の戦い)。しかし永禄7年(1564年)、斎藤飛騨守に私怨があった竹中重治と、その舅であり西美濃三人衆の1人・安藤守就によって飛騨守を殺害されて居城の稲葉山城を占拠され、龍興は鵜飼山城、さらに祐向山城に逃走した。後に重治と守就は龍興に稲葉山城を返還したため、龍興は美濃の領主として復帰したものの、この事件により斎藤氏の衰退が表面化する。織田信長の永禄5年頃から始まった小牧山城築城により圧力がかかった東美濃においては(遠山氏が織田氏の縁戚となるなど元々織田氏の影響力が強い地域であったが)、有力領主である市橋氏、丸毛氏、高木氏などが織田氏に通じるようになる。 永禄8年(1565年)には、織田家に降った加治田城主・佐藤忠能により、堂洞城主の岸信周が討たれた。この時、関城主であり、国内の押さえとなっていた大叔父の長井道利も織田家の武将となっていた斎藤利治に敗れ、中濃地方も信長の勢力圏に入った(中濃攻略戦)。 11月13日には、足利将軍家一色藤長にあてて、代初の儀について太刀一腰と馬一疋を祝言に贈っている。 永禄10年(1567年)、西美濃三人衆の稲葉良通や氏家直元、安藤守就らが信長に内応した為、遂に稲葉山城を信長によって落とされ(稲葉山城の戦い)、8月15日、城下の木曽川を船で下り、北伊勢の長島へと退散した。その為、龍興を追って織田軍が長島に攻め寄せている。当時20歳。以降、再び大名として美濃に返り咲くことはなかった。
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