織物作家の道へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 19:56 UTC 版)
1960年(昭和35年)頃、木内のもとに、北海道立工業試験場の工芸部と旭川市から「北海道の伝統芸能として、羊毛を題材とした織物を織ってほしい」との依頼が届いた。北海道には機織作家がおらず、歴史が浅いために伝統工芸もないことから、「北海道で多く飼われているヒツジを羊毛として活用し、北海道を代表する機織作家になってほしい」として、木内に白羽の矢を立てたのだった。北海道は明治時代に殖産事業として羊毛が奨励され、戦前まではヒツジを飼って機を織る農家も多く、戦中には軍隊向けの毛布や軍服を大量に供出していたが、戦後はインフレもあって、手間をかけて織っても金にならないとの理由で、多くの農家が機織りをやめていたことや、岩手県では戦後も羊毛服地のホームスパンが人気を博していたこと、主婦の内職に結びつけてほしいといった事情もあった。 木内にとって織物は単に趣味であったために、思いも寄らない話ではあった。また木内が好んでいたのは絹織物や木綿であり、羊毛による織物にも関心を持っていなかったが、折角の機会と思い、北海道内各地の畜産試験場や農業試験場を見学した。北海道には木綿はそぐわず、絹のための繭を飼うこともできないことから、温かい綿羊は日常的とも思われた。 しかし実際に話を聞けば聞くほど、自分の手の出せる世界ではないと考え始めた。伝統工芸を新たに作り出すということは、参考にするものがないことを意味しており、何をもとにデザインすればよいのか、自身の創造力に自信を喪失し始めた。 そのような迷いを見せていたある日、札幌の畜産試験場の帰り道に、札幌市豊平区の羊ケ丘の夕空が見事な茜色に染まり、ヒツジの群れが夕陽に照らされて歩いている光景を目にした。この光景の美しさに心を打たれた木内は、北海道の美しさを織物にすることを決心した。後年に木内は、この羊ケ丘の風景を指して「もしあのとき、あの光景に出会わなかったら、今の優佳良織はなかったのでは、と思うときがある」と語った。 太陽がこんなに大きいなんて。これほどまでに真っ赤だなんて。その下を"羊群声なく牧舎に帰り"── 有名な北大恵迪寮の寮歌そのままの雄大さ。初めて北海道の素晴らしさを見つけた感動です。その時、不意に羊毛を素材に北海道を織る仕事を生きがいとして、この道を歩こうという心が固まったんです。 — 木内綾、「生きる 木内綾さん(『優佳良織』織元)力の限り『心』織り込む」、渡辺 1993, p. 5より引用 その光景を見たのはこの時の一回きり。最初で最後ですね。あとはついぞ見にもいけなかったですけれども。でもいつも「いつか、また見に行きたい、見に行きたい」と、この年まで思い続けてきまた。……美しい光景でしたね。(中略)目の裏に焼き付いていて、さっき見たように覚えています。あんな晴天で、雲が五色に輝いて。あれは神様が…… あの光景を見せてくれた。私を虜にしたのでしょうね。 — 木内綾、「あれは神様が…… あの光景を見せてくれた。」、石原 2006より引用
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