織物企業へと変貌する時期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/14 03:28 UTC 版)
当初は士族の女性のみに限っていた織工場への修業生の受け入れ枠を、1879年(明治12年)5月より平民の子女にも広げ、1880年(明治13年)5月18日からは職制改革により織縫課も新設した。 さらに、1880年(明治13年)6月8日には、メリヤス器械やミシンも導入され、メリヤス場(裁縫場)が新たに設けられた。 1885年(明治18年)になると、莫大小(メリヤス)製織の製造を始め、その縫製や染めを行なう工場設備を稼動させた。 1890年(明治23年)からは、米国向けの刺繍入りハンカチ、絹糸撚製の羽二重(はぶたい)や斜子織(ななこおり)などの絹織物の製造を開始。 義済堂は、旧岩国藩の借入金の返済原資を得る為の既存の貸付金の整理・回収業務や、窮民への資金貸し出し機関、および、旧家臣たる士族の役禄喪失後の生業の維持・確保を行なう為の受け皿訓練所という存在から、徐々に繊維業事業を行なう会社としての存在に変わっていった。
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