総書記選出までの経歴
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1933年、中国共産党に入党。中華人民共和国の建国後は、中国共産主義青年団(共青団)第一書記、陝西省党委員会第一書記などを歴任したが、文化大革命が始まると1967年に実権派と批判されて失脚。後に党主席となる華国鋒は、胡耀邦が湖南省党委に下放された時の部下だった。 文革後期の1972年に復活。鄧小平が2度目の復活を果たした1975年に中国科学院副秘書長となり、鄧小平が打ち出した「全面整頓路線」(軍隊、地方の党・行政組織、工業、農業、商業、文化、科学技術の整頓・再建)を推進し、優秀な人材の抜擢や育成などを行う。翌1976年、周恩来追悼の第1次天安門事件が発生して鄧小平が再失脚すると、胡耀邦もともに失脚した。しかし、1977年鄧小平の再復活にともない、党中央組織部長に就任し、建国以来、特に文化大革命中に冤罪で失脚した長老たちや右派分子と認定されていた者の名誉回復を行った。1978年には、胡は党の理論研究の場である中央党校の副校長を兼任していたが、このとき南京大学の哲学の教授であった胡福明の論文「実践こそ真理を検証する唯一の基準である」に目をとめた。この論文をもとに、華国鋒の拠り所となっていた「二つのすべて」を批判し、文革路線からの脱却を図る鄧小平を援護した。同年12月の第11期3中全会において鄧小平の実権掌握に貢献し、同会議において胡耀邦は中央政治局委員に昇進し、党中央秘書長兼中央宣伝部長に抜擢された。さらに1980年2月に開催された第11期5中全会において、中央政治局常務委員・党中央書記処総書記に就任した。以後、鄧小平のもとで文革の清算と改革開放政策が進められる中、1980年9月、党主席・国務院総理(首相)だった華国鋒は、経済政策や文革への姿勢などを批判されて総理を辞任した(後継は趙紫陽)。さらに1981年の第11期6中全会で華国鋒は党主席をも解任され、胡耀邦が後継の党主席に就任した。鄧小平中央軍事委員会主席・胡耀邦総書記・趙紫陽首相によるトロイカ体制が確立され、この頃の胡耀邦は「天が落ちてきても胡耀邦と趙紫陽が支えてくれる」と鄧小平が語るほどの信任を受けていた。
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