結成と地位の確立
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「マイ・ブラッディ・ヴァレンタイン」の記事における「結成と地位の確立」の解説
1984年、ダブリンにて結成。1987年頃に、それまでボーカル担当でバンド名の考案者でもあったオリジナルメンバーのデイヴ・コンウェイとその恋人ティナ・ダーキンが脱退すると、ケヴィン・シールズがリード・ボーカルも担当するようになり、デビー・グッギ、次いでビリンダ・ブッチャーが加入してバンド編成が変わると音楽スタイルもそれまでとは大きく変わった。 『ストロベリー・ワイン』『エクスタシー』で後につながる方向性を示し、クリエイション・レコーズに移って1988年に発売された『ユー・メイド・ミー・リアライズ』でブレイクした。それ以降、幾重にも重ねられたノイジーなギターサウンドと、甘く脱力的な歌い方の男女のボーカルのメロディーを融合させ、サンプラーやエフェクターなどの機材も駆使し強くディストーションを掛けた幻想的なサウンドを創造する。彼らのそうしたスタイルは、ライドやチャプターハウスなど「シューゲイザー」と呼ばれる多くのフォロワーを生んだ。 1991年のアルバム『ラヴレス』(当時の邦題は「愛なき世界」)での独創的なサウンドで、彼らの代表作どころか、シューゲイザーの金字塔を打ち立て、以降のアーティスト達に影響を与え続けている。 『ラヴレス』の後、メジャーのアイランドに移るが、コンピレーションアルバムなどに2、3曲ほど提供したのみで、アルバムのリリースはなかった。アルバム制作のためにスタジオを新しく作ったが、機材が全て動かず、使い物にならなかったなどのトラブルがあったという。またドラムンベースに影響を受けそれを取り入れてアルバム2枚分ぐらい曲を作ったこともあったが、ケヴィンはその出来に満足できず、発表されることはなかったという。バンドの表立った活動が長らく休止状態な中、ケヴィンは他のバンドのリミックスやプロデュース、プライマル・スクリームにサポート・ギタリストとして参加、2003年の映画『ロスト・イン・トランスレーション』でブライアン・レイツェルと共同で音楽を担当(サントラCDも出ている)などのソロ名義での楽曲発表、パティ・スミスとのジョイント・ライヴ(「ザ・コーラル・シー」という題で2008年にCD化)などを行い、ビリンダはヒップホップ・ユニットにフィーチャーされ、デビーはSnowponyでベーシストとして活動した。 2007年に再始動を発表。新曲・新作の発売は相変わらずされないものの、久しぶりにライブ活動が行われ、日本ではFUJI ROCK FESTIVAL'08へ参加した。その後数年にかけて、『ラヴレス』発売当時のライブでは表現出来なかったことが音響技術が進んだ今なら出来るとして『ラヴレス』時の曲を中心としたライブ活動を行っている。 なお、ライブでは大音量で演奏する轟音バンドとして知られ、耳を守るためライブ会場で耳栓が配られることもあるほどである。
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