結成と初期の経歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/28 00:59 UTC 版)
「ブラインド・フェイス」の記事における「結成と初期の経歴」の解説
ブラインド・フェイスの始まりは、1968年中頃のクリームの解散に遡る。最初期の「スーパーグループ」であったクリームは、数年の間に何百万ものアルバムを売り上げ、グループ及び各メンバーのレパートリーは世界的な人気を博することとなった。しかし、バンド結成以前からのジャック・ブルースとジンジャー・ベイカーの不仲は改善されることはなく、クラプトンは2人の仲を取り持つのに尽くしたが徒労に終わり、結局バンドは解散となった。クリーム解体後のクラプトンは商業的におもねったブルースを演奏することに嫌気がさしており、新たなジャンルへ実験的で束縛されないアプローチを進めていくことを望んでいた。 スティーヴ・ウィンウッドも、3年間リードシンガーを務めていたスペンサー・デイヴィス・グループで同様の問題に直面していた。ウィンウッドはジャズの要素を取り入れることでバンドのサウンドを変化させたかったが、他のメンバーと方向性が異なったことで脱退し、1967年にトラフィックを結成した。トラフィックはその2年後の1969年に活動を一時停止、ウィンウッドは友人のクラプトンと共に、サリーにあるクラプトンの地下室でセッションを始めた。ウィンウッドとクラプトンは、以前に「パワーハウス」プロジェクトで共に活動していた。 クラプトンはジャム・セッションには満足していたが、本格的なバンド活動を始めるのは躊躇していた。1969年のある日、ジンジャー・ベイカーが彼らの活動に加わり、新バンドは最終形態に近い形となった。ただクラプトンはジャック・ブルースと、もしそれぞれが共に活動することがあるなら、もう一度3人でプレイすると約束しており、ベイカーを新バンドに誘うとなればブルースも加えるべきではないかという思いがあり、一方でクリーム解散から9週間しか経っていないのに再結成はしたくないと考えていた。その上、また「クリームのような」スーパースターとしての環境に身を置きたくもなかった。結局ウィンウッドが、ベイカーはグループの音楽性を高めてくれるし、彼ほどのドラマーを他に見つけるのは難しいと主張して、バンドのラインナップにベイカーを加えるようクラプトンを説得した。 1969年5月までに、リック・グレッチ(ファミリーのベーシスト)が誘われ、リックはツアー途中でファミリーを脱退して加入した。アルバムのレコーディングはエンジニアのアンディ・ジョーンズがモーガン・スタジオでバックトラックの大半を録音し、アラン・オダフィーが残りのトラックを録音、オーバーダブとミックスがオリンピック・スタジオで行われた。これらの作業はプロデューサーのジミー・ミラーが監修し、彼はそれぞれのトラックを商業的な標準の3-5分以内に収めるのを好んだ。その後バンドはブラインド・フェイス(盲目的信頼)と名付けられる。これはクラプトンの新しいグループに対するシニカルな視点からのものであった。
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