終戦、再統一まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 15:47 UTC 版)
1945年4月1日にアメリカ軍がフルダに入城し、国家社会主義から解放された後、まずインフラを使える状態にしなければならなかった。20万 m3 の瓦礫除去の他、ガスと電気の供給回復が優先された。難民を受け容れるために、1950年代まで住居や学校の建設が行われた。 1946年のフルダの営業登記簿には、工業企業が70社、合計 331人の従業員が登記されている。1947年には登記されている会社 1,442社に 16,000人が働いていた。このうち、324社は従業員は企業所有者のみ、その他 780社が従業員数5人以下であった。50人以上を雇用する大企業33社のうち、約1,200人を擁するメーラー社が最も大きな会社であった。ベリンガー社は 480人、戦争で完全に破壊されたゴム工場はすぐに再建され 650人を雇用していた。 その後数十年間は、国境地域に位置するフルダの立地によって特徴付けられた。交通の便は悪化した一方で、国境振興政策によって企業は新たに定着していった。ソヴィエト管理地域から追放された企業家の中にはフルダで後継企業を設立した者もいた。たとえば、ヨフハイム、ヴァーグナー & Co 自動車部品、リフォーム機械工場、ラーベンザイフナーなどである。1948年にはマクデブルク火災保険会社が本社をフルダに移転した。 戦後ドイツの急激な経済発展は、フルダにもいくつかの起業をもたらした。デュラ・トゥフティング GmbH 1955(1967年の従業員数 861人)や1970年から2つめのこの町の工場で生産を開始したアドルフ・ヤス製紙工場などである。フルダでも小型車フルダモビール(ドイツ語版、英語版)が開発され、一部生産が行われた。経済成長期の労働市場に対する影響で、事実上完全雇用が実現した。1968年、この街には、フルダ郡を含め、928人の欠員登録と427人の失業者がいた。 1973年のオイルショックとそれに伴う経済危機は、フルダの伝統豊かな多くの企業、特に紡績部門を生産停止に追い込んだ。1970年代から1980年代になっても、新たな生産方法への転換や新たな製品への変更が行われたが、それまでにないほど絶えず加速する適応圧力についてゆけなくなった多くの、そのほとんどが自己資本力が脆弱な中小企業は閉鎖した。
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