細川讃州家に仕えるとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 細川讃州家に仕えるの意味・解説 

細川讃州家に仕える

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/18 06:11 UTC 版)

三好之長」の記事における「細川讃州家に仕える」の解説

阿波でも最有力国侍だったという三好長之嫡男として誕生阿波守護であった細川氏分家讃州家(阿波守護家)の細川成之仕えた。諱の之長は成之の偏諱受けたのである応仁元年1467年)に応仁の乱勃発、成之が本家京兆家当主室町幕府管領でもあった細川勝元助けるために京都出陣した際、之長も成之に従って渡海初陣飾った文明3年1471年)、之長は突如主家である讃州家に反抗して祖山籠るが、阿波在国していた成之の嫡男・政之や一宮長光に攻められ文明5年1473年)に降伏している(『阿波志』)。 応仁の乱幕府権威失墜し畿内ではたびたび一揆起こり出すが、之長はそれらの一揆人心機微掴んで煽動した指導したりしたとされる文明17年1485年6月11日には捕えられた盗人奪い返そうとして勝元の子細川政元慰留され、8月京都土一揆が起こると之長は一揆張本目されて、8月9日に政元や侍所所司代多賀高忠らに宿所包囲されるが、前夜事態察した之長は細川政之の下に逃げ込んで庇護求め、政元らは政之の屋敷包囲して身柄引き渡し求めたが、政之は拒絶あるいは之長を誅したと述べたので、政元は包囲解いて退散した。するとこの翌日からは再び一揆煽動し14日には土倉襲って質物奪ったとまでいわれている。若年の政之への讃州家継承による家中動揺最中生じた長の一連の事件は、政之と之長に対す讃州家家臣の不満を高め一部家臣勝手に阿波下向して反乱計画するようになった10月不穏となった阿波へ政之と共に帰国して反乱鎮圧何事も無かったかのように上洛した。之長が処罰されなかった理由は成之・政之父子から貴重な人材目されていたからであり、土一揆構成員大名家臣紛れ込んでいるのは珍しくなく、彼らを処罰すれば軍事力低下を招く恐れあったからである。之長は土一揆騒動一躍京都で名を知られるようになっていった。

※この「細川讃州家に仕える」の解説は、「三好之長」の解説の一部です。
「細川讃州家に仕える」を含む「三好之長」の記事については、「三好之長」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「細川讃州家に仕える」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「細川讃州家に仕える」の関連用語

細川讃州家に仕えるのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



細川讃州家に仕えるのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの三好之長 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS