細川藤孝と朝倉家との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 09:47 UTC 版)
「明智光秀」の記事における「細川藤孝と朝倉家との関係」の解説
本能寺の変後に、ルイス・フロイスの『日本史』や英俊の『多聞院日記』には、光秀は元は細川藤孝に仕える足軽・中間(主人の身のまわりの雑務に従事する武士の最下層)であったと記すが、これは両者の地位に大きな差があったということで、当時には何らかの上下関係があったと見てよい。信長への仕官の初祿は『細川家記』では500貫文で朝倉家と同額としており、これは雑兵ら約百人を率いて馬に乗り10騎位で闘う騎馬(うまのり)の身分であり、通説となってきた。しかし、太田牛一の『太田牛一旧記』では、朝倉家で「奉公候ても無別条一僕の身上にて」と、特色の無い部下のいない従者1人だけの家臣だと記述している。
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