箱根駅伝本選へ33年ぶり出場・41年振りシード権獲得
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「原晋」の記事における「箱根駅伝本選へ33年ぶり出場・41年振りシード権獲得」の解説
箱根駅伝の出走経験や出場校OBではなかったが、原が36歳のとき母校・世羅高校の関係者から紹介を受け、2004年に中国電力を突如退職ののち、青山学院大学・陸上競技部監督に就任した。当初、監督就任時の条件をめぐる陸上部強化委員会からは「大学嘱託職員として任用・期間3年・現在の収入保証」を掲げていた。しかし、これに対して原自ら「出向及び休職しての指導は、中国電力と青学大との関係が全く無いから無理。退職して就任しか道は無い」「3年間で結果を出したら、3年後の身分保証をして欲しい。だが結果が出ない場合その必要もいらない」と退路を断つ旨を明確にしていた。なお妻の美穂は、当時広島の自宅近くに仕事を始めたばかりで、夫・晋からは事前に何の相談も無く、突然「中国電力を退社し、青学陸上部監督に成った。箱根駅伝では必ず優勝させるから、夫婦で東京の寮に住み込もう」と言われて吃驚仰天、猛反対し続けていたという。 青学大・陸上監督就任から間もない頃、駅伝強豪校に行くと「大学は素晴らしいけれど、駅伝は箱根に出ていないでしょう」と断られ選手のスカウティングには苦労した。しかし、自身の出身校である世羅高校と出身大学の系列校・中京大中京高校からは継続的に好選手を入部させていった。「箱根駅伝に3年で出場、5年でシード権、10年で優勝争い」と宣言したため、就任3年目の2006年の第82回箱根駅伝予選会での16位惨敗に大学幹部から「話が違う」と責められ、長距離部門も廃部寸前になった時期もあった。 しかし、就任5年目の第84回箱根駅伝(2008年)で学連選抜連合の監督としてチームを総合4位に導くと、箱根駅伝出場を目指す大学の強化支援もあって、第85回箱根駅伝(2009年)記念大会に於いては、史上最大のブランクとなる33年ぶりに同陸上部を箱根駅伝出場に導いた(22位)。 第86回箱根駅伝(2010年)大会では8位に躍進させ、41年ぶりのシード権獲得をもたらす。 第87回箱根駅伝(2011年)の復路ではアンカーの10区において、青学大を含めた合計4校がゴール直前迄熾烈なシード権争いを展開。結果8位の日本体育大学とは1秒差の9位で、2年連続でシード権獲得となった(10位は3秒差に國學院大学、11位に國學院大から僅か3秒の差で遅れた城西大学がシード権落選となった)。 第88回箱根駅伝(2012年)では、往路・復路共に7位ながら、青学大として当時最高位となる総合5位に入った。2012年10月、第24回出雲駅伝では青山学院大学として「三大大学駅伝」で初めての優勝を達成する。 第89回箱根駅伝(2013年)でも初優勝が期待された。だが往路は6位だったものの、復路では9位に下がって総合8位に終わり、箱根駅伝初制覇はならなかった。2013年10月の第25回出雲駅伝は5位、同年11月の第45回全日本大学駅伝は6位に終わった。 2014年1月の第90回箱根駅伝では往路5位・復路6位の総合5位と、前々回と同じ最高順位タイに留まった。続く同年11月の第46回全日本大学駅伝は明治大学との2位争いに敗れ、3位だった(2014年10月の第26回出雲駅伝は平成26年台風第19号の接近による影響で開催中止)。
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