等々力家の歴史
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等々力氏(とどりきし)は、飛鳥時代の斉明天皇2年(656年)から安土桃山時代まで仁科氏の被官であり、史料には仁科の名とともに現れる(『仁科濫觴記』)。応永7年(1400年)。篠ノ井大塔(おおとう)における大塔合戦において、信濃国守護小笠原長秀に対する大文字一揆側の仁科盛房の一党(被官)に、仁科盛光、千国鬼八郎、沢戸五郎、穂高氏、正科氏、池田氏、渋田見氏ら他の安曇郡の武士とともに「戸度呂木(とどろき)」氏の名がみえる(「大塔物語」)。 武田信玄がこの地方を支配するようになったのが天文22年(1553年)で、森城主に五男盛信をあてた。等々力氏は仁科盛信に随身し、穂高地方を領する。 永禄10年(1556年)武田信玄に対し、小県郡生島足島神社の神前で、忠誠を誓った起請文の中には、仁科の親類被官として等々力豊前守定厚の名がみえる(『安筑史料叢書』では「等々力豊前守政景」になっている)。 天正8年(1580年)仁科盛信が、領中に散在した馬市を穂高に集中させるに際して、等々力治右衛門尉に宛てた数通の書状がある。これらの文書は、馬市の監督を命ずるとともに、軍勢の動員と携帯すべき武具の心得等を通達しているものであり、当時のこの地方の武士の動静をうかがい知ることができる。 等々力氏は江戸時代に入ってからは郷士となり、武田氏のあと、この地方を治めるようになった小笠原氏に随身した。大坂冬の陣には、在郷武士として小笠原忠脩に従って出陣したが、のちに帰農して庄屋となった。 等々力家は、東龍寺(現・東光寺の前身)の開基であり、天正18年(1590年)に貝梅の北城から当地に移建している。江戸時代の初期、松本城主石川氏のときに柏原、重柳等の近隣諸村に分家を派出し、それぞれ保高組の大庄屋をつとめている。当地には松本藩の鮭、鴨の狩猟場(鴨場)があって等々力家は御本陣として殿様の野行の際の休憩所になっていたものである。松本―信州新町間に犀川通船が開通すると、犀川につながる万水川、穂高川の川岸が寄港地となり、等々力は物資の集散地となった。 等々力家の屋敷構えは、長屋門があり、本屋の奥に殿様座敷等四部屋をつくっている。庭園は、桃山期の流れをくむ地方ではめずらしいもので、座敷とともに江戸中期に造られたものである。 なお、等々力家の子孫には、古美術界で有名な等々力孝志、現在古典文学研究家として各地で公演活動を行っている深草彬がいる。
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