等々力家の歴史とは? わかりやすく解説

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等々力家の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/14 00:35 UTC 版)

等々力家」の記事における「等々力家の歴史」の解説

等々力氏(とどりきし)は、飛鳥時代斉明天皇2年656年)から安土桃山時代まで仁科氏被官であり、史料には仁科の名とともに現れる(『仁科濫觴記』)。応永7年1400年)。篠ノ井大塔(おおとう)における大塔合戦において、信濃国守護小笠原長秀対す大文字一揆側の仁科盛房一党被官)に、仁科盛光、千国八郎、沢戸五郎穂高氏、正科氏、池田氏渋田見氏ら他の安曇郡武士とともに「戸度呂木(とどろき)」氏の名がみえる(「大塔物語」)。 武田信玄がこの地方支配するようになったのが天文22年1553年)で、森城主に五男盛信をあてた。等々力氏は仁科盛信随身し、穂高地方領する永禄10年1556年武田信玄対し小県郡生島足島神社神前で、忠誠誓った起請文中には仁科親類被官として等々力豊前守定厚の名がみえる(『安筑史料叢書』では「等々力豊前守政景」になっている)。 天正8年1580年仁科盛信が、領中に散在し馬市穂高集中させるに際して等々力治右衛門尉に宛てた数通の書状がある。これらの文書は、馬市監督命ずとともに軍勢動員携帯すべき武具心得等を通達しているものであり、当時のこの地方武士の動静うかがい知ることができる。 等々力氏は江戸時代入ってからは郷士となり、武田氏のあと、この地方治めようになった小笠原氏随身した。大坂冬の陣には、在郷武士として小笠原忠脩に従って出陣したが、のちに帰農して庄屋となった等々力家は、東龍寺(現・東光寺前身)の開基であり、天正18年1590年)に貝北城から当地移建している。江戸時代初期松本城石川氏のときに柏原重柳等の近隣分家派出し、それぞれ保高組の大庄屋つとめている。当地には松本藩狩猟場(鴨場)があって等々力家御本陣として殿様の野行の際の休憩所になっていたものである。松本信州新町間に犀川通船開通すると、犀川につながる万水川穂高川川岸寄港地となり、等々力物資集散地となった等々力家屋敷構えは、長屋門があり、本屋の奥に殿様座敷四部屋をつくっている。庭園は、桃山期の流れをくむ地方ではめずらしいもので、座敷とともに江戸中期造られたものである。 なお、等々力家の子孫には、古美術界で有名な等々力孝志、現在古典文学研究家として各地公演活動行っている深草彬がいる。

※この「等々力家の歴史」の解説は、「等々力家」の解説の一部です。
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