第7の犯行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 09:15 UTC 版)
「アンリ・デジレ・ランドリュー」の記事における「第7の犯行」の解説
時期:1917年9月1日 被害者:セレスティン・ブイソン(44歳) その後、ランドリューの犯行は再び未亡人が相手となった。ブイソンは金に細かいことで知られる未亡人で、3年前にホテル経営者である夫と死別し、約1万フランの遺産の貯蓄があった。1915年5月1日、ランドリューが偽名で出した結婚広告を目にし、彼と文通を始めた。将来を悲観するブイソンに対し、ランドリューは同情的な返事を書き、ブイソンは次第に彼に惹かれていった。 しかし半年後、ランドリューは音信不通となった。ランドリューは他の犯行を片づけた後、1917年7月にブイソンのもとに現れた。音信不通だった理由は、商用でアフリカに行っていたためと偽った。同年にブイソンの姉が死去し、ランドリューがその葬儀の世話をしたことで、2人は親密な仲となった。同1917年、ランドリューはブイソンに求婚した。ブイソンの家族はランドリューに会った際に、ランドリューは家族からの問いに対してあやふやに答えていたため、家族らはランドリューに対して疑いを持ったが、家族らはブイソンの想いを止めることはできなかった。 ブイソンは私生児の息子がいたが、その子を妹のラコストに預けて、ランドリューと共にパリに出た。8月19日、ランドリューは前回同様にガンベ行きの往復切符と片道切符を買った。9月1日、ブイソンは消息を絶った。殺害時期と見られる9月1日には、ランドリューの預金が千フラン増えていた。 9月下旬、ランドリューはブイソンのいたアパートを訪れ、守衛に「部屋の家具類の処分を、この手紙を持つ人物に委託する」との、ブイソンの署名入りの手紙を示した。守衛は難色を示したが、ランドリューは乱暴な態度で「ブイソンは南部で駐留アメリカ軍の食堂を経営している」と言い放ち、家具類を持ち出して現金に換えた。
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