第四の航海: 南氷洋と太平洋
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「ベンジャミン・モレル」の記事における「第四の航海: 南氷洋と太平洋」の解説
アンタークティックは1829年9月に、モレルとしては第4の航海のためにニューヨークを発ち、太平洋に向かった。このときはモレルの妻が主張してモレルに同行し、航海から戻ったときにその経験の備忘録を準備した(ゴーストライターはサミュエル・ナップだった)。彼女の宣言していた目的は「アメリカ水夫の状態に関する改善」だった。この妻はモレルの2度目の妻だった。最初の妻は1819年に結婚し、モレルが第1の航海に出ていた1822年から1824年の間に、2人の子供死んでいた。モレルは直ぐに当時15歳の従妹であるアビー・ジェイン・ウッドと結婚した。 最初に寄った港はニュージーランドの南にあるオークランド諸島であり、モレルはそこでアザラシを大量に捕獲できると期待していたが、その海域には何もいないことが分かった。その後は北の太平洋に向かい、その後の数か月でアンタークティックは現在ミクロネシアと呼ばれる多島海で、島の住人との激しい小競り合いに巻き込まれた。そのうちの1つは大きな戦闘にまで発展し、モレルの表現では「虐殺」になった。その証言は空想の産物だと無視されており、むしろ負傷した乗組員の1人によるより直接な記録が残されている。このような経験をしても、モレルが競争の無い商売の可能性と見たものを実行するために、これらの島から戻ろうとすることはなかった。ヌクオロ環礁の原住民からさらなるアンタークティックへの攻撃を受けてもこれを鎮圧し、刃物類、安物の宝石類やその他原住民が見たこともなかったであろう金属製道具など工芸品と引き換えにモレルは彼らから島を購入した。モレルの意図は、この海域に多い「ビシェ・ド・メール」すなわち中国の市場で高額で売ることのできる食用ウミウシを収穫することだった。束の間の和平があった後、モレルが島に築いた砦が再度攻撃され、原住民の「抑えられない執念深さと絶え間ない敵意」の故に、モレルはその事業を放棄することに決めた。 モレルは商業的な成功が無かったにも拘わらず、その帰還の途では、太平洋における将来の可能性について楽観的なままだった。「出資者の僅かな分け前でもあれば、我が国がこれまで享受してきた以上に魅力的な新しい交易の道を開くことができ、さらにそれが私の権限の内に入り、私の望む条件で私だけが独占を確保できる」と記した。モレルはその証言の最終段で、妻の父、彼の叔母と叔母の子供が全て彼の留守中に死亡し、従妹の一人とその夫も死んだと記録している。
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