第一次ニューカッスル公爵内閣
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「トマス・ペラム=ホリス (初代ニューカッスル公爵)」の記事における「第一次ニューカッスル公爵内閣」の解説
「第1次ニューカッスル公爵内閣」も参照 1754年3月に弟が死去。代わって組閣の大命を受けたのがニューカッスル公だった。しかし彼は貴族院議員であり、庶民院内にパートナーにするほど信頼できる有力者を見つけられなかったので、第一次ニューカッスル公爵内閣は発足当初より不安定だった。 同年に行われた解散総選挙は与党の勝利に終わったものの、11月から招集された議会では、庶民院内に大きな勢力を持つウィリアム・ピット(大ピット。当時陸軍支払長官)やヘンリー・フォックス(当時戦時大臣)が政権内不満分子となって公然と政権批判を展開した。 折しも北アメリカでフレンチ・インディアン戦争が勃発し、イギリスは対仏開戦したが、陸でも海でも敗北した。またヨーロッパ大陸の情勢も不穏になったため、同君連合のハノーファー選帝侯領を守るべく、1755年夏から秋にかけてヘッセン=カッセル方伯領およびロシア帝国と条約を結んだが、その見返りとしてこの両国に多額の供与金を与えることになったため、この政策は批判された。ニューカッスル公爵は庶民院内の反対勢力を抑え込むべく、同年11月にフォックスを庶民院院内総務に任じて懐柔するとともに、ピットを政府役職から更迭した。 ニューカッスル公爵は外交革命によってヨーロッパでの戦争を防げると楽観視していた。しかし、フランスは1756年5月、トゥーロンに大軍を集結させ、地中海に浮かぶ英領ミノルカ島に上陸させた(セント・フィリップ砦包囲戦)。イギリスは5月17日にフランスに対して宣戦布告した(七年戦争)。しかし、ミノルカ島奪還に派遣されたジョン・ビング率いる艦隊は敗北し(ミノルカ島の海戦)、ミノルカ島は6月28日に占領された。これに世論が激昂し、ニューカッスル公爵とビングに対する批判が高まった。ビング提督は軍法会議にかけられて銃殺刑に処せられた。ニューカッスル公爵はビングに全責任を押しつけ、彼を軍法会議にかけることで保身を図ったが、イギリス軍は北アメリカでも敗戦を重ねたため、批判熱は収まらなかった。内閣に見切りを付けたフォックスは庶民院院内総務を辞職。ニューカッスル公爵は大ピットに協力を要請するも拒否され、総辞職は避けられなくなった。 11月に内閣総辞職、代わって第4代デヴォンシャー公爵ウィリアム・キャヴェンディッシュが首相に就任したが(ピット=デヴォンシャー公爵内閣)、事実上の指導者は大ピットだった。しかし、ニューカッスル公爵を排除して作られたこの政権は与党内の支持を広げられず、1757年4月に国王から更迭された。
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