第一次ニューカッスル公爵内閣期(1754年 – 1756年)
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「ジョージ・ドディントン (初代メルコム男爵)」の記事における「第一次ニューカッスル公爵内閣期(1754年 – 1756年)」の解説
1754年3月6日にペラムが死去すると、ドディントンはペラムの後任である初代ニューカッスル公爵トマス・ペラム=ホリスと交渉を再開した。ドディントンは海軍会計長官への復帰を求め、公爵から色よい返事を受けたが、その1週間後には官職の内定がすべて済んでいたと言われた。直後の総選挙ではエグモント伯爵、第2代ポーレット伯爵ジョン・ポーレット、ブリッジウォーターの地方自治体が手を組んだ結果、ブリッジウォーター選挙区で落選(得票数3位、105票)したが、ウェイマス・アンド・メルコム・レジスで当選して議席を維持した。ウェイマス・アンド・メルコム・レジスではニューカッスル公爵の支持する候補者を当選させた。4月26日には再びニューカッスル公爵の傘下に入る望みを述べ、公爵から好意的な返信を受けており、『英国議会史』は「こうして喜劇は続いた」(So the comedy went on)と評した。 1755年に大ピットとヘンリー・フォックスが庶民院院内総務の職をめぐって争ったとき、ドディントンは同年3月に大ピット支持を表明したが、5月には日記で第1次ニューカッスル公爵内閣の「不適任、不誠実さ、卑劣さ」(insufficiency, falseness, and meanness)を批判、議会でロシア帝国とヘッセン=カッセル方伯領への資金援助条約に反対した。裏では第2代ハリファックス伯爵ジョージ・モンタギュー=ダンクとつながり、ハリファックス伯爵10月にドディントンとニューカッスル公爵を引き合わせた。今度は交渉に成功、ドディントンは12月22日に海軍会計長官への任命を受け、1756年1月13日に正式に就任した。ドディントンはウェールズ公妃に一連の行動について説明したが、ドディントンの申し開きに対するウェールズ公妃の態度は冷淡だった。 海軍会計長官への2度目の就任は長く続かず、同年11月にピット=デヴォンシャー公爵内閣が成立すると、大ピットは11月25日にドディントンを更迭して、ジョージ・グレンヴィルを海軍会計長官に任命した。
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