第一次ドーバー包囲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/19 08:26 UTC 版)
「第一次バロン戦争」の記事における「第一次ドーバー包囲」の解説
6月中旬までに、カンタベリーとロチェスターにあった王宮と、両都市、およびケントのほとんどは既にルイの手に落ちていたが、(もともとこの侵攻に反対であった)フランス王は息子がイングランド征服の鍵となるべきドーバーをまだ占拠していない事を嘲っていた。ルイはドーバー出兵の準備を始め、6月25日に進軍を開始する。優勢なルイの軍隊であったが、当時のドーバー城主であるヒューバード・ド・バーは、1205年、フランスのシノン城をめぐる戦いにおいて、フィリップ2世の軍を相手に、城を長期間上手く防衛した実績があった。 最初の包囲戦は7月19日に始まった。ルイは城の北門を防御上の弱点と見抜き、そこに兵力を集中させた。ルイの兵たちは外堡の土台を掘り進めて城門を倒してしまおうとしたが、ド・バーの兵は城壁への工作を巨大な材木を使って妨害し、ついに侵入者らを撃退することができた(ちなみに、包囲戦のあと弱点となった北門は封鎖され、その地域に地下道が造られ、さらに聖ヨハネの塔と新しい軍事総長の門とフィッツウィリアムの門が建設された)。包囲戦は約3か月続いたが、決定的な打撃を城に与える事はできず、攻城側の兵達も徐々に消耗してきた。そのうち、ルイが占拠していたケントで、ウィリアム・カッシンガムが率いるウィールド地方の弓手らが蜂起した為、10月14日、ルイは休戦を提案し、すぐにロンドンに戻った。
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